佐敷城 (さしきじょう) (佐敷花岡城) (国の史跡)
最寄地 熊本県葦北郡芦北町花岡496−2 2014.9.8 2018.12.10
佐敷城 (さしきじょう) (佐敷花岡城) (国の史跡)
最寄地 熊本県葦北郡芦北町花岡496−2 2014.9.8 2018.12.10
登城ルート(緑線は車道)
佐敷城跡碑
本丸石垣
本丸西門石段
追手門跡・桝形石垣
二の丸・虎口石垣
三の丸跡
佐敷城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 佐敷川が注ぐ八代湾に突き出た標高88mの山頂にあり、薩摩街道を抑える要衝に築かれている。北西より標高88mの本丸、二の丸、三の丸と配置されている。
本丸、二の丸の高石垣は忠実に復元されており、見る者を圧倒する。
【案内】 「南九州西回り自動車道(無料区間)」芦北ICより町立佐敷中学校(表記番地)を目指す。中学校西の交差点より西に登ると駐車場が用意されている[マップコード431 765 738*81] (地図)。
徒歩で北西に150mほど行くと石垣の残る本丸跡であり、城跡には杉などの樹木は無く周囲の眺望は素晴らしい。
北西側に「本丸西門」の虎口があり、桐紋鬼瓦が出土している。中央通路が北西から南東にあり、南東側に「本丸東門」がある。その東に「山王三所大権現」の石碑が祀られている。
下ると二の丸で石垣がよく復元されている。大手桝形に「天下泰平銘の鬼瓦」が出土している。追手門跡の標柱がある。
【発掘調査】 昭和五十四年(1977年)に石垣の一部が発見され、平成五年(1993年)から平成十三年(2001年)にかけて発掘調査が行われた。
平成十年(1998年)三月、熊本県指定の史跡に指定され、城跡より出土した「天下泰平国土安穏」と彫られた瓦も同時に県指定の重要文化財に指定された。同年4月、佐敷城跡城山公園として一般公開された。
平成二十年(2008年)3月28日、「近世初頭頃の政治・軍事を理解するうえで重要な遺跡である」として、城跡の83,500㎡が国の史跡に指定された。
【歴史】 佐敷城の名は在地の豪族である佐敷氏が拠る城として南北朝時代から歴史書に登場するが、その所在地は今日の佐敷城址ではなく、その東に位置する「東の城」が中世の佐敷城であったという説が有力である。
佐敷城を巡って八代を本拠とする名和氏と球磨から勢力を伸ばした相良氏との間で争奪が繰り返されたが、永禄二年(1559年)肥後守護である菊池為邦により相良氏の葦北(あしきた)領有が認められた。
天正九年(1581年)、島津義久は相良義陽(よしひ)と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて家臣の宮原景種を佐敷城代とした。
次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を攻略したが、天正十五年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐を受け、肥後の諸城を放棄して薩摩に撤退した。
豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、天正十六(1588年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となった。
加藤清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き上げ、加藤重次を城代として置いた。
文禄元年(1592年)六月、城代の加藤重次が文禄の役に従軍して不在であることに乗じて島津歳久(義久・義弘の弟で家久の兄)の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、井上吉弘など留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還された(梅北の乱)。
朝鮮の役から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城の普請を行うが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いが起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、佐敷城は島津忠長の軍によって包囲された。
関ヶ原における西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約一ヵ月間、加藤重次は佐敷城を守りきった。
その後も佐敷城の増改築は続けられたが、慶長二十年(1615年)に徳川幕府の一国一城令が布告され、佐敷城は石垣を崩されて廃城となった。
寛永十四年(1637年)天草・島原の乱終結後、徳川幕府より「壊し方が不十分」として再び石垣を壊された。