楽々前城 (ささのくまじょう) (佐田城・垣屋城)
最寄地 兵庫県豊岡市日高町道場157−1 2018.8.9
楽々前城 (ささのくまじょう) (佐田城・垣屋城)
最寄地 兵庫県豊岡市日高町道場157−1 2018.8.9
登城ルート
墓地・階段より尾根へ
尾根の岩場
北の郭
北の郭南の堀切
中の郭
中の郭南の堀切
主郭下段の石塁(奥に主郭切岸)
主郭
楽々前城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高250m】
【感想】 稲葉川右岸の標高300mの山頂に築かれている。山頂の主郭より北の尾根に20数段の郭が階段状に並び堀切、竪堀、石垣などよく残っている。
地理院地図に遊歩道が2ヶ所描かれているが、実際とは違っていて全く登れなかった。墓地から藪もなく比高20mほどで尾根先端に出、すぐ左に北端の高い切岸が見え、帰りを意識して登っていくとよい。
【案内】 静修小学校(表記番地)南東より南に行き稲葉川を渡り100mほど行くと、左に民家、右に墓地がある[マップコード194 450 000*10](地図)。
階段より墓地背後に比高20mほど登ると、尾根先端部に出る。そこから左に尾根を行き3段の高い切岸を登ると、岩場の斜面に出る。
そこを登ってしばらく行くと、左に竪堀があり、その上に南北に広い「北の郭」が3つ並んでいる。
更に登ると堀切があり、堀底道を登ると土塁のある「中の郭」がある。堀切を越えて3段の郭がありその上に主郭下の郭がある。北から西へ回り込んでおり、北側に雛壇上の石垣や石塁がある。石塁を伝って登ると、腰郭に出、南に主郭がある。主郭は50m×30mほどの広さがあり、礫のような石が散乱している。南東下段に竹林となった郭がある。
【歴史】 築城年代は定かではないが、応永年間(1394~1428年)但馬守護山名氏の重臣垣屋隆国によって築かれたと云われる。
垣屋氏の出自については明らかではないが、垣屋重教が山名氏に従って但馬へ入部したのが始まりとされる。重教の子、垣屋弾正時忠は「明徳の乱」で山名時熙を助けて討死した。この時忠の子が垣屋隆国である。
垣屋隆国の二男国重は宵田城主、三男国時は轟城主、四男永喜は知見村に分知されて郷士となった。
隆国の後は嫡子満成が継ぎ、その子垣屋政忠は文明十八年(1486年)蔭木城で赤松政則の軍勢と戦って討ち死にした。政忠の子、垣屋満成は永正九年(1512年)鶴ヶ峰城を築いて居城を移したが、楽々前城は依然として一族の拠る要害として重要視された。
天正五年(1577年)織田信長の部将羽柴秀吉が中国攻めを始めると、垣屋宗家の光成は織田方に付いた。しかし、一族の一部は毛利方に付いて楽々前城に立て籠もり秀吉軍に抗戦し、攻められて落城した。その後は定かではないが、まもなく廃城になったと思われる。