笠松山城 (かさまつやまじょう)
所在地 愛媛県今治市朝倉南 2020.2.6
笠松山城 (かさまつやまじょう)
所在地 愛媛県今治市朝倉南 2020.2.6
登城ルート
登り口・標識
北西側遠景
西側の曲輪
頂上の観音堂
東側・中継局
笠松山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高270m】
【感想】 瀬戸内海を望む標高357mの笠松山に築かれている。堀切は見られないが、岩場の主郭に観音堂、中継局が建てられ、西側に広い曲輪がある。
世田山城から約1.1kmの遊歩道があり、そちらからも来られるが、世田山城は前回登っており、北麓から単独で登ってみた。
【案内】 県道162号線より野々瀬古墳を過ぎ「三六九寺」(今治市朝倉南 丙130−22)に向かう。
そこより南東にゆくとすぐ、三叉路脇に案内板があり、そこに駐車できる[マップコード119 544 340*07]。
右の道を行き、砂防ダムの右側を通る道を歩くと、標識のある登り口に着く(地図)。
そこより約1.2kmの遊歩道が設けられ、樹木も少なく見通しが効き安心して登れる(過去に山火事があった)。
頂上には石垣の上に観音堂が祀られ、東側に中継局が建てられている。西側下段は広く、四阿、説明板が建てられている。
【歴史】 河野四郎為世の隠居城があったと云われ、南北朝時代、篠塚伊賀守の居城があったと云われる。
興国三年(1342年)頃、守将大館氏明は伊予官軍の勢力を盛り返そうと、新田義貞の弟・脇屋義助を迎えたが不幸にも病没し、それを知った阿波讃岐の細川氏の大軍が来襲し世田山城・笠松山城を包囲した。将兵は奮戦するも遂に落城し、篠塚伊賀守は敵中を突破し魚島へ逃れたと云う。
伊賀守が落ち延びる際、兜の内側に秘めていた1寸8分の黄金観音像を笠松山山頂に安置して去ったものを、戦いの後村人が、この地に小祠を建てて祀り、幾度かの改築を経て現在の観音堂に至っている。
その後、岡大和守代々の居城となったが、天正十三年(1585年)河野氏が滅亡すると、城主・岡彦三郎は城を去り、廃城となった。