水俣城 (みなまたじょう) (市の史跡)
最寄地 熊本県水俣市古城1丁目6‐88 2014.9.8
水俣城 (みなまたじょう) (市の史跡)
最寄地 熊本県水俣市古城1丁目6‐88 2014.9.8
登城ルート(緑マークは高城)
説明板・城趾碑
北側石垣
本丸跡
二の丸・荒神神社
石垣・古井戸
水俣城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 水俣市中心の古城1丁目にある標高約30mの独立丘陵に築かれている。「東福寺」(表記番地)の駐車場が利用できる[226 740 421*38]。
「東福寺」の西の二の丸跡に荒神神社が祀られ、その横に「水俣城跡古井戸」がある。
その上段に稲荷神社のある本丸跡があり、北側に石垣が少し残っている。
城域は古城と高城に分かれ、本城にあたる古城から石垣や互の破片が出土したが、「水俣市厚生会館・水俣市遺族会」東の高城(地図)では遺構は確認されていない(城山公園となっている)。
1978年に水俣市が城跡に運動公園を造成し、地下から石垣が検出された。
【歴史】 水俣を本拠として葦北郡を治める水俣氏が城主を務めており、北朝至徳二年二月四日(1385年3月23日)の今川了俊の書状に城名が記されているのが当城の最も古い記録である。
やがて本郷氏が入った後、南北朝時代から葦北へ進出を図っていた相良氏が長禄四年(1460年)に水俣を支配下に入れた。
大永四年(1524年)には相良長定が若い相良長祇(ながまさ)を人吉から追い十五代当主となり、策謀に罹り長祇は当城の後方の立山で自刃した(享年25歳)。
弘治三年(1557年)に水俣城主の上村頼興が没すると、息子の上村頼孝らは相良義陽に反乱を起こした。
水俣城を与えるという条件で頼孝は帰参したが、義陽により謀殺された。
永禄二年(1559年)五月二十一日、頼孝の叛乱に与し関係の悪化していた菱刈氏により落城させられているが、翌三年(1560年)に天草の上津浦氏が仲介となり、相良側より水俣内の十二の屋敷を菱刈氏に割譲することで、七月三日に城を譲渡された(『八代日記』)。
天正年間に入ると隣接する島津義弘との対立が始まり、海陸から攻撃が加えられた。
天正九年(1581年)には島津勢が大軍で水俣城を囲み、城主の犬童頼安が籠城したが、人吉城主相良義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏し水俣城から撤収した。 島津氏は古墻大炊大夫を地頭とし、当城に置いた。
天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐後に、葦北郡は豊臣秀吉の直轄領となり、深水長智(剃髪後は宗方)を当地の代官および水俣城・津奈木城の城主に任命した。
その後、相良氏や寺沢広高が城代を務め、慶長三年(1598年)に寺沢領となった。
翌、慶長四年(1599年)に小西行長、さらに同五年(1600年)には加藤清正領となった。
清正は中村正師を城代にしたが、慶長十七年(1612年)に江戸幕府の命で宇土城、愛藤寺城(山都町)と共に破却された。