甲山城 (こうやまじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県庄原市本郷町233 2019.5.1
甲山城 (こうやまじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県庄原市本郷町233 2019.5.1
登城ルート
本堂左の城跡碑・説明板
西郭南郭間の堀切
3郭
2郭
1郭・櫓台
甲山城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高110m】
【感想】 庄原市本郷町の標高381mの丘陵に築かれている。櫓台のある1郭を円形に囲むように北側に2郭、南側に3郭がある。その他東と西、南に夫々郭があり、土塁や空堀、堀切がよく残っている。
中腹にある円通寺までの道は狭く、カーブもきつく通行には注意を要する。心配の方は円通寺山門の南側の空き地に駐車し徒歩を薦めたい。
【案内】 県道458号線に「←円通寺本堂・甲山城跡」の標識があり、狭い道を西に行き、北に行くと円通寺山門があり、その前を左にすれ違えない道を行く。
大きく右折する所にも標識がある。2ヶ所切り返して登ってゆくと円通寺駐車場に着く。
円通寺本堂左に城跡碑、説明板が建てられている。そこよりフエンス扉を開け閉め登ってゆくと、西郭、南郭間に出、更に行くと3郭に着く。1郭には櫓台があり、北側に帯状に2郭、南側に3郭がある。2郭の東に東郭がある。東端に堀切が見られる。
昭和四十六年(1971年)12月23日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 山内氏は藤原姓で平安時代後期資清の時主馬首(しゅめのかみ)となった事から首藤(すどう)を称した。
平安時代末期に資清の曾孫俊通が相模国山内荘を領したことから、山内氏を名乗るようになった。
鎌倉初期、戦功により備後国地毗(ぢび)荘をはじめ全国各地に地頭職、また伊勢伊賀の守護職に補任されるなど、鎌倉幕府の有力御家人となった。
鎌倉時代末期の正和五年(1316年)山内通資(みちすけ)の時、地毗荘北部多賀村の蔀山城を築き、関東から移住した。
文和四年(1355年)蔀山城を弟通俊に譲り、自らは地毗荘南部の北郷に甲山城を築き本拠とした。
戦国時代、豊成の時地毗荘周辺をはじめ各地に進出し、備後国守護の山名氏から備後国守護代・段銭奉行に任じられ、国衆中座上とされるなど安芸国の毛利氏と肩を並べる勢力を持った。
天文二十二年(1553年)隆通の時毛利氏に臣従した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏に従い萩に移り、廃城となった。
江戸時代を通して、山内氏代々は長州藩の寄組(家老職)として藩政の中枢を担った。