日隈城 (ひのくまじょう)
所在地 大分県日田市庄手601 2014.5.13
日隈城 (ひのくまじょう)
所在地 大分県日田市庄手601 2014.5.13
丹後丸・亀山公園
大手門桝形虎口
二の丸跡
日隈神社
日隈神社脇の城趾碑
日隈城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 県道677号線「亀山橋」交差点より南に50ほど行った、亀山公園となっており、比高約30mの頂上に日隈神社(表記番地)があり、駐車場が用意されている[マップコード202 816 439*18] 。亀山公園の東側が「馬責場」、西側が「丹後丸」であった。
三隈川(筑後川上流名)の北に位置し、北西に登り口があり、大手門跡の桝形石垣が残る。大手門を登った三隈川に面する曲輪が三の丸で、穴井六郎右衛門之碑や日清日露戦役忠魂碑が建てられている。
その上段南の曲輪が二の丸跡である。頂上が本丸で、日隈神社が祀られ、社殿脇に城跡碑がある。北側の公園広場が馬責場であった。馬責場の西の大手門との間が丹後丸と呼ばれた。
穴井六郎右衛門は延享の飢饉の際、岡田代官の重税に苦しむ日田・玖珠の天領民を救うため、13ヶ村630人の血判状を胸に、江戸幕府に直訴し帰郷した。後、捕えられ浄妙寺川原で斬られた。大正十四年にその遺徳を偲んで石碑が建てられた。
【歴史】 文禄元年(1592年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豐盛によって築かれた。
当時日隈山一帯を境内としていた曹洞宗寺院である真光寺を麓に移して築かれ、田島村(現日田市大原八幡宮付近)より、商家や市を竹田村(現日田市隈町付近)に移し、城下町を形成した。
慶長元年(1596年)に毛利高政が2万石(6万石とも)で移封され増築を施し、五重天守や三重の月見櫓・丹後丸櫓・二の丸門櫓・北の三ノ丸櫓・三本松大門などが増築され、城下には二重の堀と土塁が廻らされた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで和議を図った。
その年に毛利氏は城を開け渡し、一時、栗山氏が日田郡を治めることとなった。
慶長六年(1601年)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老の毛利隼人を入れた。
慶長七年(1602年)毛利高政は佐伯(佐伯城)に移封となり、城は小川氏の預かりとなった。
元和二年(1616年)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城となった。破城は寛永年間(1624~44年)とされているが、松平直矩時代の日田陣屋(永山城)役宅増設の時、貞享元年(1684年)、「永山、隈居城…」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。
移築された建物としては、日田陣屋本陣とするために御殿、隈町願正寺山門とするために大手門が移築されていたが、双方とも現存しない。