寺中城 (じちゅうじょう) (三会城)
最寄地 長崎県島原市寺中町丙2606 2019.12.10
寺中城 (じちゅうじょう) (三会城)
最寄地 長崎県島原市寺中町丙2606 2019.12.10
登城ルート
島原市消防団第2分団格納庫
入口・南の郭
南の郭より北の郭を見る
空堀
北の郭・石垣
寺中城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 島原市中野町の有明海を望む台地に築かれており、80×40m程の北郭があり、南西に空堀で隔てて、同規模の南郭が残っている。
石垣や切岸がよく残り、周囲の道路から見ると城らしい雰囲気が漂い、現在は畑として利用されている。
【案内】 「島原市消防団第2分団格納庫」(表記番地)に駐車できる[マップコード173 867 307*85]。
そこより写真の南の郭が見えている。北東に歩くと、空堀が見られ主郭には石垣が残っている。
【歴史】 築城年代は定かではないが、城主は浜の城主島原氏の一族和泉左京とされる。
戦国時代末期、佐賀の龍造寺隆信に呼応して有馬晴信に反逆した。
天正十二年(1584年)三月二十三日、隆信は約50艙の船で鍋島氏を将とする5千の兵が島原へ入ろうとしたが、有馬・島津氏の船が多数島原を囲んでいたため、寺中城に回ったとされる。
そこへ島津の兵が攻め寄せたが、龍造寺の兵は城内に逃げ込み合戦には至らなかった。
翌、二十四日隆信は島原へ兵を進めたが、沖田畷に於いて有馬・島津の連合軍に攻められ、討死した。
その後、寺中城下に於いて合戦があり、5日間の戦いの末、島津側に下り、島原は島津氏の占領下になった。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の島津氏征伐で、有馬晴信が当地の支配者となった。