三石城 (みついしじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県備前市三石271 2018.3.3
三石城 (みついしじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県備前市三石271 2018.3.3
登城ルート
登り口・標識
第二見張所
三の丸石垣
二の丸
本丸
鶯丸と本丸間の堀切
三石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【感想】 金剛川に沿った三石市街地の北西側にある標高297mの天王山に築かれた中世の連郭式山城である。三の丸の石垣や大手門の石垣がよく残っている。また鶯丸との堀切は深く見応えがある。
【案内】 国道2号線より県道96号線に入り、山陽本線を潜った「関川」交差点より東に約300m行くと橋本石油店(表記番地)があり、駐車場が利用できる[マップコード541 752 835*37](地図)。
その角に、登山口の案内板がある。宅地の間を行くと、案内図があり少し登ると尾根に出、「第二見張所」があり、右へ登ってゆく。
中腹に「息つぎ井戸」、8合目に「千貫井戸」が残っている。頂上手前の西側に第一見張所がある。戻って登ってゆくと三の丸石垣があり、その上段に二の丸、本丸と階段状に並んでいる。西側に馬場があり大手門、堀道を登ると堀切で隔てられた鶯丸が残る。
昭和五十四年(1979年)3月27日、岡山県の史跡に指定された。
【歴史】 『太平記』によると、鎌倉時代末期の1333年(元弘三年/正慶二年)に三石保地頭の伊東大和二郎が南朝方に加担し、居館の背後の天王山に築城した云われる。大和二郎は西国から六波羅救援に向かう北朝方に対抗した。
南北朝時代の1336年(建武三年/延元元年)、九州へ敗走する足利尊氏が家臣の石橋和義に守備を命じ、新田義貞の追撃軍を足止めした。
赤松則祐が備前守護となると、浦上宗隆が守護代となり1365年(貞治四年/正平二十年)三石城に入城した。以後、室町時代から戦国時代にかけて概ね浦上氏の居城となった。
嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱が起き、赤松氏当主の赤松満祐は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、山名持豊(宗全)を主力とする幕府軍に居城を攻撃され自害した。これにより備前は山名氏の配下となった。
応仁元年(1467年)応仁の乱に乗じて満祐の甥・赤松政則が備前守護となり主家の守護復帰に尽力した浦上則宗も守護代に復帰した。政則の死後、則宗は養嗣子の赤松義村に家督を相続させ赤松氏の中で権勢を振るうようになり、次第に赤松家中で対立を深めていった。
則宗の2代後の当主・村宗の代に、主家との対立が決定的となった。永正十六(1519年)村宗は三石城に籠城し、赤松義村は三石城を包囲した。しかし浦上方は包囲軍を敗走させた。大永元年(1521年)には義村を幽閉し殺害した。こうして浦上氏は戦国大名となった。
村宗の嫡子・政宗が本城の室山城主、次男の宗景が三石城主となった。宗景は兄との不和から天文二十三年(1554年)播磨国境より離れた天神山城を築いて移り、三石城は放棄された。