稲八妻城 (いなやつまじょう) (南稲八妻城・稲屋妻城・政ヶ谷城)
所在地 京都府相楽郡精華町南稲八妻字北ヶ谷 2017.2.4
稲八妻城 (いなやつまじょう) (南稲八妻城・稲屋妻城・政ヶ谷城)
所在地 京都府相楽郡精華町南稲八妻字北ヶ谷 2017.2.4
登城ルート
南稲八妻跨道橋・登り口
北側の郭と主郭(奥)
主郭・土塁
空堀
稲八妻城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 山城一揆で蜂起した農民たちの最後に抵抗した城とされ、死を覚悟した生きざまが偲ばれる。
南側の空堀は、竹林の中にあるが規模も大きく見応えがある。
【案内】 京奈和自動車道の跨道橋を渡った隅に駐車スペースがある[マップコード11 618 500*07](地図)。
南稲八妻跨道橋の反対側方向に直登すると、間もなく主郭があり、北に一段低い郭がある。
主郭南側に土塁があり、下ってゆくと大きな空堀が残っている。
北北東約1.1kmの竹内神社(精華町大字北稲八間北垣外45)背後の城山にも同名の稲八妻城(稲八間城)跡がある(地図)。
【歴史】 応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。
南山城(みなみやましろ)でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。文明十七年(1485年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされる。
明応二年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲屋妻城に立てこもって抵抗した。