蒲池城 (かまちじょう) (鎌池城)
最寄地 福岡県柳川市西蒲池885−1 2020.3.13
蒲池城 (かまちじょう) (鎌池城)
最寄地 福岡県柳川市西蒲池885−1 2020.3.13
城跡碑
水田・崇久寺
崇久寺
崇久寺の蒲池鑑盛とその一族の墓
蒲池城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 城跡碑が建っている付近一帯が城跡で、江戸時代、柳川城主・田中吉政の時に取り壊され、水田や畑となり、現在は一部宅地化している。
【案内】 国道385号線より東に行った表記番地前に「蒲池城跡之跡」の石碑が建てられている[マップコード37 033 896*60](地図)。
南の崇久寺(柳川市東蒲池1472-1)境内に蒲池鑑盛とその一族の墓が祀られている(地図)。
【歴史】 天慶年間(938~47年)藤原純友の一族によって築かれた。 その後、松浦党の蒲池氏の代々の居城となり、文亀年間(1501~04年)蒲池治久の時に支城として、南方約3kmに柳川城が築かれた。
後に、蒲池氏が筑後十五城筆頭として筑後を統括する大名となり、子・鑑久あるいは孫・鑑盛(宗雪)が柳川城を、蒲池氏の本城とした。
天正九年(1581年)蒲池鑑盛の嫡子鎮漣(しげなみ)の時、龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、断り切れず200名の家臣と共に佐賀に赴いた。
その帰路に於いて、隆信の軍に襲撃され、奮戦するも全員討死した。隆信の家臣・龍造寺家晴が蒲池城を攻め取り、城を焼き払い、三島宮、浄光院、宗久寺を破壊した。
天正十五年(1587年)立花宗茂が柳川城主となり、小野和泉守を蒲池城番とした。
慶長六年(1601年)田中吉政が柳川城主となると蒲池城を取り壊した。
大正五年(1916年)まで、城跡の四隅に天神が祀られており、西蒲池本村が城跡である。『蒲池城跡之碑』由来文より。