道竹城 (どうちくじょう)
最寄地 鳥取県岩美郡岩美町浦富707 2018.8.10
道竹城 (どうちくじょう)
最寄地 鳥取県岩美郡岩美町浦富707 2018.8.10
登城ルート(緑線は車道)
登り口
鳥居から登る(参道)
3郭・奥に2郭
2郭・藪の主郭
道竹城跡万霊供養塔
道竹城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【感想】 岩美町浦富の標高150mの小山に築かれており、階段状の3つの郭がある。
放置状態で、特に主郭は、日当たりよく背丈を超える薮で踏み込めなかった。北東、北西、西、南の4つの尾根に小郭群や堀切があるらしいが、猛暑と藪化で踏査できなかった。
【案内】 岩美中学校(表記番地)の校舎を抜けて体育館南側プール南より登り口がある。西へ約250m行き、右側の鳥居を潜り少し行くと参道がある。
主郭、2郭、3郭と東西に並び南側に帯郭がある。帯郭西に「道竹城跡万霊供養」塔があり、その上に社が祀られている。
【歴史】 南北朝時代から室町時代中期まで、因幡国の守護所は岩常(現・岩美郡岩美町岩常)の二上山城に置かれていたが、のちに守護所は布勢天神山城へと移行した。
それに伴い、二上山城周辺は荒廃し、治安も悪化した。状況を憂えた村民は、山名氏総領の但馬山名氏に請うて山名氏一族の三上兵庫頭豊範を二上山城将として派遣させた。
三上豊範は急峻な山城だった二上山城の不便さをいとい、山陰道を押さえ日本海にもほど近い標高150mの小山に道竹城を築いて居城とし、道竹城および二上山城は因幡における但馬山名氏の橋頭堡となった。
因幡山名氏滅亡後、因幡守護には但馬より山名豊定が入り、因幡一円は完全に但馬山名氏の支配下に入ったかに見えた。
しかし永禄年間になると、山名氏の宿老として鳥取城に入っていた武田高信が山名氏に離反、道竹城にあった三上豊範も武田高信と同盟した。
永禄七年(1564年)、因幡守護・山名豊数は道竹城を急襲、不意を突かれた豊範は道竹城を捨てて二上山城に敗走する途中で討ち死にしてしまった。道竹城がその後どのような経過をたどったかは明らかではない。『ウイキペディア』より。