瓦林城 (かわらばやしじょう)
所在地 兵庫県西宮市日野町2‐51 2015.5.3
瓦林城 (かわらばやしじょう)
所在地 兵庫県西宮市日野町2‐51 2015.5.3
参道・城址碑
日野神社
境内
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 阪急神戸線の北に位置し、日野神社(表記番地)南側の参道横に「瓦林城址」(平成四年)の石碑が建てられ、日野神社由緒が建てられている[マップコード12 599 353*04](地図)。
広い敷地の森にモダンな拝殿が建てられ、天照皇大神が祀られている。遺構は特に見当たらなかった。
【歴史】 瓦林城の文献の初見は、『貴志義氏軍忠申書』に記載されている建武三年(1336年)四月十三日「楯籠瓦林城郭、云々」というのがある。赤松則村の家臣貴志五郎四郎義氏によって築城された。
足利尊氏が九州から上陸を阻止する役目だと思われる。同年五月二十五日、湊川の戦いで香下寺城および円生寺城から南朝軍が来攻したのでこれらと戦った。
次に登場するのは菅原道真の子・右馬之介を始祖とする瓦林正頼の時代、瓦林城は瓦林(河原林)正頼の居城となっていた。
永正十三年(1516年)越水城を築城すると同時に、鷹尾城(芦屋市)、富松城(尼崎市)を改築し、居城を越水城に移し、以後越水城の支城になったと思われる。
最後は、瓦林正頼の子孫と思われている瓦林(河原林)三河守である。織田信長方について阿波讃岐の三好氏の軍勢と戦い、元亀元年(1570年)九月二十八日篠原長房の不意打ちにあい、防御施設が乏しかった瓦林城は一挙に攻め立てられた。
瓦林(河原林)三河守以下男女百余名が討ち死、その中女性や子供も二十名程度おり、瓦林氏はこの時を最後に滅んでしまったと言われている。尚、この戦いは越水城ではなかったかという説もある。