大宰府政庁跡 (だざいふせいちょうあと) (国の特別史跡)
所在地 福岡県太宰府市観世音寺4‐6‐1 2013.10.8
大宰府政庁跡 (だざいふせいちょうあと) (国の特別史跡)
所在地 福岡県太宰府市観世音寺4‐6‐1 2013.10.8
政庁礎石群
「都督府古址」石碑
政庁礎石群
大宰府政庁跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道78号線「大宰府政庁前」交差点より北に駐車場が設けられている[マップコード55 332 182*66] 。堀の東に「大宰府展示館」(表記番地)がある。
東西120m、南北164mの長方形の敷地と、東西120m、南北66mの敷地が南北に接しており、土塁・堀が廻らされ、大門、南門、中門や正殿等建物7棟の礎石が残っている。
中門に「都督府古址」の石碑など3基が建てられている。その北に東西7間(28.5m)、南北4間(13m)の正殿があった。
大正十年(1921年)3月3日、「大宰府跡」として国の史跡に指定され、昭和二十八年(1953年)3月31日、国の特別史跡に指定された。
平成二十一年(2009年)2月12日追加指定された。
昭和四十五年(1970年)9月21日「大宰府学校院跡」が国の史跡に指定された。
東方約400mに山上憶良の「子等を偲ぶ歌」の歌碑、「大宰府学校院跡」の説明板が道路横に建てられている(地図)。
【歴史】 外交と防衛を主任務とすると共に、西海道九国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。828年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。
与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。軍事面は、その管轄下に防人を統括する崎守司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。
外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたため、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。
長官は太宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていた。
奈良時代以降は、失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真や藤原伊周(これちか)などがいた。
保元三年(1158年)に平清盛が大宰大弐になると、政権基盤である日宋貿易の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20㎞北の博多(福岡市)へ移る。
鎌倉時代にも大宰権帥や大宰大弐が広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。
中世に入り、朝廷の衰微や元寇など西海道の動向につれて実権は揺らいでいく。
南北朝時代には、南朝の後醍醐天皇が皇子の懐良(かねなが)親王を征西将軍として派遣し、菊池氏に擁立された懐良親王を頂く南朝方は正平十四年(1359年・延文四年)の筑後川の戦いで少弐氏を総大将とした北朝方を破り、本拠とした。
南朝方の征西府は室町幕府が派遣した今川貞世(了俊)に敗れ、少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代には大内氏に追われた。