鶴賀城 (つるがじょう) (利光城)
所在地 大分県大分市上戸次利光 2019.5.6
鶴賀城 (つるがじょう) (利光城)
所在地 大分県大分市上戸次利光 2019.5.6
登城ルート(緑線は車道)
長曾我部信親の墓
二の丸南の駐車場・説明板
二の丸・城址碑
本丸東の堀切
本丸標柱
2重横堀
畝状竪堀
鶴賀城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高150m】
【感想】 大分市南部に位置する大野川右岸の標高193mの山頂に築かれている。
本丸には2重横堀や畝状竪堀がよく残っている。東に堀切で隔てて、二の丸、防塁、三の丸が並んでいる。
他に北西麓の成大寺(廃寺)に続く遊歩道沿いに穀倉、のろし台などが残っている。
【案内】 北西麓の成大寺からも遊歩道があるが、北東の市道から車道で登ってみた。
共和コンクリート工業㈱に入る地点に道標がある[328 455 348*27](地図)。市道と並行した林道を約1km行くと三叉路となり、そこを左に進む[マップコード328 425 548*45]。400m程行くと二の丸南に着く。
舗装道でない箇所も少しあるが、緩やかな登りで簡単に二の丸南に着くことが出来る。
二の丸には「鶴賀城址」「城将利光越前守宗魚終焉之地」の石碑が建てられている。
東に防塁に沿って行くと、三の丸がある。戻って西に行くと、旧道との分れがあり、新道を行くと、堀切がありその西上段に土塁の残る本丸がある。
本丸の南に曲輪があり、その南西下段に2重になった横堀や畝状竪堀がよく残っている。
西へ戻った市道横に、戸次川(へつぎがわ)の戦いで豊臣勢として戦死した「長曽我部信親墓」「十河一族の碑」が建てられており、入口付近に駐車できる[マップコード328 484 109*37](地図)。
【歴史】 建久七年(1196年)大友氏初代能直が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の豪族を一掃した。
能直の孫大友親家に「利光」と名乗らせ、以来390年間府内南の要衝として、利光氏が居城とした。
天正十四年(1586年)大友、島津の確執はやがて豊薩の陣へと発展した。
十一月には家久率いる薩摩軍2万の精鋭が伊集院美作を先陣に、二陣、三陣と攻め寄せた。
同年十二月十二日、大友義統・十河存保が率いる豊臣勢は戸次川の合戦で大敗を喫した。斜陽の大友氏に節義を貫く城将・利光越前守宗魚の率いる3千余の豊後勢は、善戦10日に及ぶが遂に悲運な最後を遂げた。
翌天正十五年、豊臣秀吉が九州平定に出陣し、薩摩島津家久を収め、豊薩の天王山とも云われる鶴賀城攻防戦は終わった。