柳川城 (やながわじょう) (舞鶴城)
所在地 福岡県柳川市本城町82‐2 2013.6.1
柳川城 (やながわじょう) (舞鶴城)
所在地 福岡県柳川市本城町82‐2 2013.6.1
柳城中学校グランド・城阯碑
本丸跡
白秋句碑
天守台・城跡碑
御花
柳川城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 内堀がめぐらされた本丸には南西隅に天守台、石垣が残る。
柳川市立柳城中学校(表記番地)と柳川高等学校が建てられ、それぞれのグランドの間に白秋の句碑「母に手を曳かれて遠しせみの声」が建てられている。県道767号線の横に城跡碑、説明板がある[マップコード69 843 733*82] 。
外堀内に在った三の丸跡は市街地となっており、南西側の外堀に接して、日本庭園「松濤園」と藩主別邸「御花」が現存している(柳川市新外町1)[マップコード69 842 599*34] 。
【歴史】 もともとは下筑後地方(筑後国南部)の領主である蒲池治久(かまちはるひさ)(本城は蒲池城)が、文亀年間(1501~04年)蒲池氏の支城として築いた。
後に蒲池氏が筑後十五城筆頭として筑後を統括する大名となり、子・鑑久あるいは孫・鑑盛(宗雪)が蒲池氏の本城とした。
永禄年間(1558~70年)蒲池鑑盛(かまちあきもり)によって本格的な造作を行った。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされた。
その後、龍造寺氏の武将である鍋島直茂や龍造寺家晴が入り、居城とした。
秀吉の九州征伐後、天正十五年(1587年)大友氏の武将立花道雪の養子である立花宗茂(統虎)が立花山城より筑後南部13万石の城主となり秀吉に仕えた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、鍋島直茂らがここを攻めた。立花宗茂は激戦の後、黒田如水、加藤清正らの取り成しで降伏開城した。
関ヶ原の戦いの戦後処理により、西軍側だった宗茂は領地を失い、代わって三河国岡崎城より豊富家臣・田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となった。
吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。吉政の子、二代忠政が元和六年(1620年)8月7日、36歳で死去し、嗣子無く、柳河藩田中氏は改易された。
同年、陸奥赤館より立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川藩主の立花氏の城となった。
元禄十年(1697年)城の西方に藩主別邸(現在の「御花」)が造営され、会所として使用され、さらに柳川城より奥機能が移転して、「御花畠」と命名された。
明治五年(1872年)火災で櫓一基、土蔵、厩、城門三棟を残し、五重天守など多くが焼失した。