桑野城 (くわのじょう) (栗栖城)
所在地 徳島県阿南市桑野町岡元116 2017.9.21
桑野城 (くわのじょう) (栗栖城)
所在地 徳島県阿南市桑野町岡元116 2017.9.21
西側切岸
参道・石碑
石碑(左に城主名・城名)
段差
萬福寺
桑野城跡(地図)
【遺★★☆☆☆】
【感想】 遺構は少ないが、周囲に切岸が見られ、境内は南北2段となっている。
【案内】 阿波室戸シーサイドライン「桑野駅」から県道24号線に出て、東に向かって歩行距離500mの、萬福寺境内となっている。
車の場合は参道の右に数台分の駐車場が用意されている[マップコード217 434 274*45]。
参道入口の萬福寺石碑に「東条関之兵衛城主桑野城跡・別名栗栖城」の添え書きがある。
【歴史】 甲斐武田氏の流れをくむ東条信綱は甲斐守を名乗り、天文年間(1532~55年)に桑野に来住し、8村を領有した。
信綱の跡を継いだ東条関之兵衛は勢力を拡大し、牛岐城主・新開道善(実綱)と戦い、この辺りの主導権争いをした。畿内の永正の錯乱などに参戦し、阿波の有力武将だったことが考えられる。
天正三年(1575年)頃に長宗我部元親が阿波に侵入したとき城主東条関之兵衛は元親に帰属し、元親は養女を関之兵衛に娶らせ姻戚関係を結んだ。桑野城は元親の阿波侵攻の拠点の1つとなった。
天正五年(1577年)の夏、三好方の矢野駿河守国村と篠原自遁らは3千の兵を率いて桑野城を攻撃した。
しかし、長宗我部方に与した一宮成助は長宗我部の兵と共に三好方の後方を脅かしたために、篠原自遁は早々と退却、矢野駿河守は追ってきた土佐勢と勝浦川近くで戦ったが、長宗我部方に200人余りを討ち取られた。矢野駿河守は船に乗って津田(徳島市)へ渡り、勝瑞へ帰った。
関之兵衛はのち西方城城主となり、天正十年(1582年)に中富川の合戦に牛岐右京進、仁宇但馬守、四宮肥後守らと共に長宗我部方で参戦し、戦功をたてた。阿波平定の後、木津城城主となった。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めの際に関之兵衛の叔父東条紀伊守が降伏しており、関之兵衛と家来の子5人を人質に渡して木津城を開城。関之兵衛は土佐へ逃亡した。この頃に桑野城も廃城になったと思われる。
なお、関之兵衛は舎弟の東条唯右衛門と共に元親によって処刑された。