勝山御殿 (かつやまごてん)
所在地 山口県下関市田倉勝山御殿跡 2014.5.14
勝山御殿 (かつやまごてん)
所在地 山口県下関市田倉勝山御殿跡 2014.5.14
三の丸跡
二の丸跡
本丸表石垣
本丸表・本丸奥石垣
勝山御殿 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 勝山御殿は、勝山と四王司山の南麓に位置する谷間に築かれており、駐車場が用意されている[マップコード557 671 268*24]。道路の南に「三の丸」があり石垣が残っている。
その北に連郭式に石段のある二の丸、高所に広い本丸があり公園となっている。本丸の石垣は良好な状態で現存している。
山々を背にする北側に本丸を構え、本丸はさらに南北二段の区画に分けられており、藩主の家族が住む北部(最奥部)が奥の院、南部は藩主が公務などを行う表とされており、本丸奥と表の間は石垣と水堀で分けられていたが、渡り廊下で繋がれていた。
【歴史】 幕末の文久三年(1863年)五月から、長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、その後六月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた(下関戦争)。
長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は関門海峡に近接した海岸沿いの場所にあったが、情勢が緊迫する中、藩主・毛利元周(もとちか)が藩邸を内陸に移すことを決定した。
同年六月二十八日から翌年にかけて突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿を築いた。工事には長府藩領内の男女が総動員された。
文久四年(1864年)二月一日には、長府藩主(のち知藩事)の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁(廃藩置県後は豊浦県庁)とされた後、明治六年(1873年)に解体された。
解体の際、建材の一部は移築され、長府の覚苑寺の庫裏・客殿となった。なお、砲撃の目標となることを防ぐため、櫓は建てられていない。
城郭の構造は「勝山御殿指図」(住吉神社所蔵)に記されていたが、近年のさらなる発掘調査により埋没していた二の丸・三の丸の城塁や本丸御殿の基礎が発見された。
大手門のあった三の丸に横矢枡形が発見されるなど、縄張りも詳しく判明した。
平成二十一年(2009年)までに勝山地区公園として整備を終え、曲輪とその石垣を生かした公園となっている。