岩石城 (がんじゃくじょう)
最寄地 福岡県田川郡添田町添田1788−2 2019.5.9
岩石城 (がんじゃくじょう)
最寄地 福岡県田川郡添田町添田1788−2 2019.5.9
登城ルート(緑線は車道)
林道左の登り口
8合目の白山神社奥の院
本丸
展望台
北東の馬場跡
南側堀切
岩石城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高270m】
【感想】 添田町添田の標高454mの岩石山山頂に築かれた山城である。
最高所の櫓台に展望台が建てられ、その南下段に広い本丸がある。
北東に馬場、国見岩、八畳岩がある。南東に石垣、石積井戸、堀切が見られる。
比高は高いが遊歩道が整備され、連休明けであったが、男女を問わずハイキング客が多く見られた。
【案内】 添田公園北にある「岩石城・添田町美術館」(表記番地)南の道路右に城址由来碑が建てられており、そこより約1km行った左側に登山口がある[マップコード96 254 246*13](地図)。その約70m手前の道路が広くなった所に駐車できる。
約750m登った8合目に白山神社奥の院があり、更に300m登ると、山頂に着く。
【歴史】 保元二年(1157年)平清盛が大宰大弐であった頃、その臣大庭平三景観に命じて築き、以後大庭氏数代の居城となった。
その後、菊池氏、大友氏、大内氏、秋月氏などにより争奪された。
天正元年(1573年)秋月種実の家臣・熊井越中守が守っていた。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の際、前田利長・蒲生氏郷の軍に攻められ落城し、城将熊井越中守は討死した。その後、小倉城に入った毛利勝信の付城として存続した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、小倉城主となった細川忠興の支配下になった。
徳川氏の治世となり、小笠原忠真に与えられたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。