鮫島城 (さめじまじょう) (貝殻崎城)
最寄地 鹿児島県南さつま市金峰町宮崎2159 2014.5.11 2018.12.12
鮫島城 (さめじまじょう) (貝殻崎城)
最寄地 鹿児島県南さつま市金峰町宮崎2159 2014.5.11 2018.12.12
貝殻崎城址の碑
由来碑
鮫島家の基所
東の登り口
東側台地の階段状の畑
南東側から見た段郭
鮫島城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 石碑東側の台地に登ってみると、3段の畑となっている。
縄張り図は無いが、南東から北西に伸びた台地上にあり、城跡の雰囲気が漂う。
【案内】 国道270号線「宮崎」交差点より北に約1100m行った表記番地手前の道路西に、小泉純一郎の揮毫による「貝殻崎城跡」の碑の立つ園地があり、「鮫島家藤表忠碑」の石碑と鮫島家の墓所がある[マップコード 198 700 365*78 ](地図)。
碑の裏面に「鮫島城」とある。その北に河多貝塚があり岸元川が流れている。
【歴史】 平安時代末、駿河国の武士鮫島四郎宗家は源頼朝の平家追討の戦いで功を挙げ、頼朝が征夷大将軍となった建久三年(1192年)阿多郡の地頭に任じられた。
貝殻崎城跡は、鮫島氏の本拠として阿多郡統治の中心となった。当時の阿多郡は交易の一大拠点であり鮫島氏も対外貿易に関わっていたと考えられ、また浦之名にあった大寺院・観音寺の管理も行った。
字宮崎の日吉神社は鮫島宗家が下向した際、駿河国鮫島郷の日吉神社を分祀し祀ったものと伝えられている。
南北朝時代になると鮫島氏は南朝方になって島津氏などと争った。貝殻崎城でも合戦が行われ、その後も鮫島氏は反守護の立場をとったが、応永二十七年(1420年)ついに島津氏の家臣となる道を選んだ。