蔀山城(しとみやまじょう) (越田城・士富山城) (県の史跡)
最寄地 広島県庄原市高野町新市76 2019.5.1
蔀山城(しとみやまじょう) (越田城・士富山城) (県の史跡)
最寄地 広島県庄原市高野町新市76 2019.5.1
登城ルート
熊野権現神社・城趾碑
登り口・説明板
大山神社
本丸・四阿・説明板
二の丸・本丸切岸
三の丸
井戸跡
蔀山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高220m】
【感想】 庄原市高野町新市の標高775.2mの蔀山頂上に本丸があり、東側に2の丸、鞍部郭、3の丸が並んでいる。
比高は高いものの木道の遊歩道が整備され安心して登れる。ただ訪れる人も少ないせいか、草木が多く2の丸の円形テーブルなど苔むしていた。
【案内】 国道432号線南麓に居館跡があり、その少し東の熊野神社鳥居横に城趾碑が建てられている(地図)。
国道を西に行った表記番地前に説明板、案内図が建てられている[マップコード388 096 528*08](地図)。その先に駐車出来、大山神社鳥居から参道がある。
東に折返し登ってゆくと、5合目に大山神社があり、その右側から遊歩道が本丸まで続いている。途中の西側の尾根に堀切がある。
本丸には四阿、説明板が建てられ、東側下段に2の丸がある。さらに東に鞍部郭を経て小高い3の丸がある。鞍部の南側に井戸跡の水溜まりが見られる。
平成四年(1992年)10月29日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代、正和五年(1316年)相模国山内庄から地毗(ぢび)荘地頭として来往してきた首藤山内三郎兵衛尉通資が、築城し越田城と称した。まもなく武衛繁栄の山なりと念じて士富(しとみ)山城と改めた。
その後、文和四年(1355年)通資が甲山城へ移ってからは、弟通俊が在城し、家名を多賀山氏と改めた。
享禄元年(1528年)、出雲国の尼子氏に攻められ、翌年七月に落城した。
その後、毛利氏に降り尼子氏との数々の戦いに参加したが、天正十九年(1591年)九月、19代左京進通信の時、毛利輝元により改易され廃城となった。