市場城 (いちばじょう) (紀佐市城・私部城)(きさいちじょう)
最寄地 鳥取県八頭郡八頭町市場159 2018.8.10
市場城 (いちばじょう) (紀佐市城・私部城)(きさいちじょう)
最寄地 鳥取県八頭郡八頭町市場159 2018.8.10
登城ルート
登り口
かえる岩
西の郭
北西の郭・無線塔
主郭
市場城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 八頭町市場の私都川左岸の標高270mの山頂に築かれている。草木が多くはっきりしないところが多いが、堀切はあまり見られなかった。西側下方の3段の郭など岩場を利用した堅固な構えとなっている。
【案内】 県道282号線より町道に入った、公民館の前に案内板があり、その前に登り口がある[マップコード125 292 657*06](地図)。公民館に駐車出来る。
約100m南の墓地を左に行き、小屋の左より九十九折れの遊歩道がある。西側にある3段の郭は岩場を利用した険しい構造で、大きく西側に回り込んで登る必要がある。頂上の主郭は細長く岩が巧みに配置されている。
【歴史】 室町時代前期、因幡毛利氏によって築城され、以後同氏の本拠地となった。
延徳元年(1489年)十一月、第2次毛利次郎の乱を起こした城主・毛利貞元は山名豊時に攻められ城内にて自害した。
永正~天正年間には但馬山名氏に抗する毛利・矢部氏ら国人衆の拠点となり、相次いで合戦が引き起こされた。
永正元年(1504年)三月の私部志谷口合戦では毛利方と思われる土師四郎左衛門尉が山名豊重方の武将・北川与三左衛門尉によって討捕らえられている。
永禄三年(1560年)二月には山名宗詮方の武将・中村政重父子らと毛利氏との間で合戦が行われ(私部表合戦)、毛利左近丞らが戦死した。
永禄七年(1564年)八月頃には経緯不明であるが、但馬山名氏との関係改善がなされたようで、山名宗詮が市場城に入っている。
その後も毛利氏・尼子氏・山名氏などが複雑に入り乱れる情勢が続き、尼子勝久・山中幸盛の挙兵以降、因幡毛利氏は尼子方に属した。
天正元年(1573年)、幸盛の娘婿(養女)の亀井茲矩が城を任されている。その時、茲矩はまだ17歳だったという。
天正二年(1574年)春、山中幸盛が入城し、「安芸毛利氏と対抗するための拠点」として利用しているが、翌年九月には安芸毛利氏の猛攻によって二の丸・三の丸まで攻め込まれ、十月には落城した。
因幡毛利氏は落城後、安芸毛利氏に降ったが、天正八年(1580年)には羽柴秀吉によって落城させられ、城主・毛利豊元らは山名豊国の鳥取城へ逃れたという。
(『吉川経家書状』によれば天正九年(1581年)五月頃の当城は安芸毛利方の包囲下に置かれ、秀吉方は長期の籠城を余儀なくされていた。なお、同書状によると但馬からの兵糧が運ばれたものの、城内の士気は低下していたという。)
毛利豊元の退城の後、但馬有子山城から山名氏政が領地替えとなり入城した。
山名氏政は当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わった。
天正十年八月二十八日付けで山名氏政は播磨加古郡へ再び領地換えとなり、市場城は廃城となった。『ウイキペディア』より。