木山城 (きやまじょう)
最寄地 熊本県上益城郡益城町寺迫50 2013.6.4 2014.5.9
木山城 (きやまじょう)
最寄地 熊本県上益城郡益城町寺迫50 2013.6.4 2014.5.9
説明板
登城ルート(緑は二の丸)
西側入口
南東側入口・城趾碑
主郭跡
二の丸入口・城址碑
二の丸跡
木山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道443号線と県道28号との「益城町寺泊」交差点のすぐ東より細い道を南に行くと、「町立学校給食センター」(表記番地)の北向かいに「木山城跡公園」がある[マップコード29 443 235*56]。
南東側入口に城趾碑が建てられ、主郭跡は公園となっている。堀切は道路になり、その北に二の丸跡があり、公園として芭蕉の句碑「落ちさまに水こぼしけり花椿」をはじめ、他に近現代俳人の句碑20基近くが設置されている。東側に秋津川の支流が流れている。
【歴史】 室町時代、木山郷は阿蘇家の支配領地であり、阿蘇家の家臣・惟興が嘉吉元年(1441年)頃、入部したと推定される。
木山惟興と名乗り、以後木山城主として、惟正・惟貞・惟久・信連と続いた。
文明十七年(1485年)木山氏が幕の平合戦に参戦した。永正九年(1512年)阿蘇惟長軍が木山城を攻撃した。
天文三年(1534年)腰尾原の戦いに参戦した。天文九年(1540年)菊池義武軍が木山城を攻めた。
天文十二年(1543年)木山氏が万坂の戦いに参戦した。天文十六年(1547年)、木山惟久は赤井城を新たに築いて移り、木山城には城代を置いた。
翌年、菊池義武が大友氏より自立を図って争った際には、阿蘇氏・大友氏側の前線である木山城も攻められ戦場となった。八月には大友軍に攻められた。永禄三年(1560年)光永氏と木山氏の合戦が行われた。
天正八年(1580年)木山氏は旦過瀬の戦いに参戦した。天正九年(1581年)木山氏は響が原の戦いに参戦した。
天正十年(1582年)頃惟久は子・信連に城主を譲り修行僧になって上洛した。
戦国時代末期になると島津氏が南方より九州全域の制圧に乗り出し、肥後の諸城を攻略、木山城と赤井城は天正十三年(1585年)九月、相次いで落城した。
信連は自殺と見せかけ逃亡、従兄弟の木山弾正正親も城に火をかけ本渡城主を頼り落ち延びた。
その後、惟久と信連は中津の黒田氏を頼り連歌師として活躍した。従兄弟「正親」は天正十七年(1589年)天草、仏木坂で加藤清正と一騎打ちをして武将「弾正」として名を遺した。
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐により島津氏が去った後は、肥後南部を領有した小西行長によって支城の一つに位置づけられたが、関ヶ原の戦いによってキリシタン大名・小西行長が斬首されると、木山城も廃城となった。『益城町教育委員会説明板』より。