御着城 (ごちゃくじょう) (茶臼山城・天川城)
所在地 兵庫県姫路市御国野町御着1142‐8 2014.5.1
御着城 (ごちゃくじょう) (茶臼山城・天川城)
所在地 兵庫県姫路市御国野町御着1142‐8 2014.5.1
市立御国野公民館
城址碑・復元塀
北側の復元された天川橋
御着城跡グランド(伝二の丸)
小寺大明神
御着城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道2号線に面して本丸跡に「市立御国野公民館」(表記番地)が建てられ[マップコード24 224 758*26] 、西に黒田家廟所(黒田官兵衛の祖父・重隆と生母の二人)がある。
公民館北に天川橋が移築復元されている。天川橋は姫路藩が文政十一年(1828年)南西200mの天川にかけた太鼓橋で、昭和四十七年9月9日出水で中央部橋脚が崩落し、昭和五十三年10月移築された。
国道南に「黒田官兵衛顕彰碑」、復元塀、城址碑が建てられている。
東の御着城跡公園(グランド)が二の丸跡である。国道2号線の歩道橋を渡った南に「小寺大明神」が祀られている。
【歴史】 永正十六年(1519年)に小寺政隆が御着の茶臼山と呼ばれる小丘上に城を築いた。
享禄三年(1530年)、細川高国と組んで一挙に上洛を狙う村宗の播磨侵攻によって御着城も攻められ落城し、政隆は自害に追い込まれた。
しかし翌年中嶋の戦い、大物崩れ(だいもつくずれ・赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高國・浦上村宗の連合軍を破った戦い)で村宗が討取られ、細川高国も自害すると、政隆の息子である則職(のりもと)が城主に復した。
則職の頃から御着城を本城、姫路城を支城としており、姫路城には家老の八代道慶や黒田氏を城代として派遣していた。
天正五年(1577年)、織田信長の中国攻めの一環で羽柴秀吉が播磨国へ侵攻した。
則職の子、赤松政職(まさもと)は家老の小寺孝高(のち黒田孝高、官兵衛、如水)の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調するようになった。
天正七年(1579年)、秀吉は別所氏の三木城を支援していた播磨の諸城を攻撃、同年に有岡城が、天正八年(1580年)に三木城が落城し、御着城も天正八年(1580年)に攻められた。
政職は毛利氏領内の鞆の浦の足利義昭の元へ脱出し、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し、落城した。
秀吉重臣の蜂須賀正勝(小六)が一時的に接収した後、廃城となった。