宮崎城 (みやざきじょう) (池内城)
最寄地 宮崎県宮崎市池内町寺迫1600-2 2016.5.15 2018.12.15
宮崎城 (みやざきじょう) (池内城)
最寄地 宮崎県宮崎市池内町寺迫1600-2 2016.5.15 2018.12.15
登城ルート(緑線は車道)
模擬門。登り口
本丸南の空堀
本丸・標柱
百貫城
野頸城(目曳城)
服部城・土塁・記念碑
服部城東の堀切
宮崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 宮崎市池内町の南北に細長い標高93mの丘陵に築かれ、5つの主要郭から構成されている。前回、日没で見れなかった城跡を訪れたが、県道横の標柱は真新しいものに更新されていた。
本丸の切岸は高く、平坦地は広く草が刈られ、野頸城は部分的に草が刈られていた。南の百貫城との間に空堀が残っている。
服部城は2段になっており、土塁の前に記念碑が建てられ、射場との間に堀切が残っている。
【案内】 県道44号線「池内」交差点の南170mに「宮崎城趾」の碑が建てられ、右折して約280m行くと、表記番地手前に冠木門、説明板が建てられている[マップコード66 469 706*11](万願寺口)。その手前に駐車スペースがある。
鉄塔のある本丸を中心に空堀の北に、野首城(目曳城)、服部城、射場城があり、本丸の南に、百貫城、南西に彦右衛門城がある。服部城は2段になり、「宮崎城三百年五十年祭記念碑」や読み取れない碑、「宮崎城四百年記念碑」の三つが建てられている。
【歴史】 建武二年(1335年)もしくは延元元年(1336年)、南朝方勢力だった図師六郎入道隋円・慈円父子が築いた。
図師六郎入道慈円が南朝方に応じて挙兵した際、北朝方の土持宣栄によって攻められて落城した。
その後は土持氏の持城だったが、文安四年(1446年)に伊東祐堯が攻略して、家臣落合彦左衛門を城主とし、伊藤四十八城の一つに位置づけられた。
天文五年(1536年)には伊東義祐(三位入道)の佐土原城が火災で焼けてしまったため、居城を移した。飫肥城攻略の重要な戦略基地として機能した。
天正五年(1577年)の伊東氏没落後は島津氏の持城となり、上井覚兼が城主を務めたと言われる。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐後、延岡城主高橋元種の所領となり権藤種盛が城代となったが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで高橋氏は豊臣方に与した為、徳川家康に与した伊東祐兵(すけたけ)の家老・稲津掃部助によって攻められ落城した。
しかし、高橋元種は美濃国大垣城攻めの際に徳川方に寝返り本領安堵となっていたため、翌慶長六年(1601年)に宮崎城は高橋氏に返還された。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。『ウイキイペデイア』より抜粋。