八代城 (やつしろじょう) (松江城・白鷺城) (国の史跡)
所在地 熊本県八代市松江城町7 2011.10.3 2018.5.5
八代城 (やつしろじょう) (松江城・白鷺城) (国の史跡)
所在地 熊本県八代市松江城町7 2011.10.3 2018.5.5
東側(表枡形門)・東堀
高麗門跡・欄干橋跡
北側虎口
八代宮
大天守跡
大小天守台・北西堀
松井神社
八代城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 八代市役所の西に築かれた平城で、本丸は約200m四方の規模で水堀・石垣が一周に亘って良く残っている。現在本丸跡は八代城跡公園(表記番地)となっている。南側に市営有料駐車場がある[マップコード128 312 337*60]。
建物遺構は残っていないが、市内の寺院に城門が現存する。本丸と堀外の北の丸の一部は公園・駐車場として整備されており、西に城主の御茶屋である松浜軒(北の丸町3−15・国の名勝)が現存する。その東に松井神社が祀られている。
本丸の東側(表枡形門)に高麗門跡・欄干橋跡があり、北側(裏枡形門)に虎口が開かれている。
南側からの入口は、明治時代に本丸内に創建された八代宮(征西将軍懐良親王・良成親王を祀る)の参道として月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られたものである。
北西の隅に大小天守台がある。東西10間南北11間5層6階の大天守が建っていた。
本丸東に高麗門跡・欄干橋跡がある。石垣に石灰岩が用いられ、その色から別名「白鷺城」とも呼ばれる。
平成二十六年(2014年)3月18日、「八代城跡群」として八代城跡が国の史跡に指定された。
【歴史】 元和五年(1619年)の大地震のため麦島城が倒壊したため、清正の子・加藤忠広は江戸幕府の許可を得て前川の北岸・松江の徳渕の近くに新たに城を築き、元和八年(1622年)に竣工した。
築城時は、本丸の北西隅に四重五階の大天守と二重二階の小天守、七棟の櫓をはじめとする建物が建ち、麦島城時代に認められた一国二城体制は継続された。
寛永九年(1632年)、加藤氏が改易されると、細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。
忠興は四男の立孝を本丸に住まわせ、いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、正保二年(1645年)閏五月に立孝は若くして没し、忠興も同年十二月に没した。
八代城には立孝の子・宮松(細川行孝)が残されたが、藩主細川光尚はこれに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老でかつ将軍直臣の身分を持つ松井興長を八代3万石の城主とした。
寛文十二年(1672年)の落雷により天守・櫓・長塀を焼失した。
寛政九年(1797年)には落雷により本丸大書院・三階櫓等を焼失した。大書院は再建されるが、天守・櫓は再建されなかった。
以後明治三年(1870年)の廃城まで、代々松井氏が居城とした。