国分城 (こくぶじょう) (舞鶴城・国分御屋形)
所在地 鹿児島県霧島市国分中央2-5‐1 2013.10.10
国分城 (こくぶじょう) (舞鶴城・国分御屋形)
所在地 鹿児島県霧島市国分中央2-5‐1 2013.10.10
国分小学校・石垣
国分小学校・石垣・屋形跡碑
太鼓橋・朱門
国分城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国分城跡地は現在霧島市立国分小学校(表記番地)の敷地となっている。
「舞鶴城屋形跡」の石碑が建てられ、石垣、堀が残り、移築された朱門(あかもん)がある[マップコード216 543 392*56] 。
東600mの山頂を後詰めの城「隼人城」があった。
【歴史】 慶長九年(1604年)頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城(隼人町住吉)から、新城を築き移り住んだ。
なお縄張りは、帰化した明人で加治木衆中の江夏友賀が担当した。義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目を敷き、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下を整備した。
慶長十六年(1611年)に義久が没した後は、義久の娘で十八代当主・島津家久(忠恒)の正室であった亀寿姫が鹿児島城より別居させられ、移り住んだ。
寛永七年(1630年)に亀寿姫が死んだ後、国分城は藩主直轄の地となり、地頭屋形がおかれた。
その後、薩摩国、大隅国の境に位置する絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は国分城下の測量まで行ったが、斉彬の死去により頓挫しこの計画は実行されなかった。
明治十年(1877年)の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯した。