伏見城 (ふしみじょう) (桃山城・指月城・木幡山城)
所在地 京都府京都市伏見区桃山町大蔵45 2011.10.11
伏見城 (ふしみじょう) (桃山城・指月城・木幡山城)
所在地 京都府京都市伏見区桃山町大蔵45 2011.10.11
模擬大手櫓門
模擬大天守・小天守
模擬大天守
伏見城 花畑跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 JR奈良線「桃山駅」の北東約1㎞に位置し、「伏見桃山城運動公園」駐車場の北にある[マップコード7 378 193*50](地図)。
伏見城花畑跡は昭和三十九年(1964年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、洛中洛外図に描かれた伏見城を参考に、五重六階の大天守と三重四階の小天守、大手櫓門が鉄筋コンクリート造により建てられている(表記番地)。柱や欄干など朱に塗られ優雅である。
天守は耐震性能上問題あるとして内部には入れない。平成十五年(2003年)1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備された。
南東の本丸跡には「明治天皇伏見桃山陵」がある。
また、西側の城下町には「桃山町三河」「桃山町島津」「桃山町福島太夫」「桃山町治部少丸」「桃山町正宗」「桃山町毛利長門」など大名屋敷に因んだ地名がある。
【歴史】 朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年(1592年)八月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため、伏見指月(宇治川の北岸、現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に着工され、指月伏見城は築城開始から二年後の文禄三年(1594年)に秀吉が入城し、更にその二年後の文禄五年(1596年)に完成をみるが、その直後の「慶長伏見地震」によって倒壊した。
このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌、慶長二年(1597年)に完成した。
しかし、秀吉はその一年後の慶長三年(1598年)に城内で没した。秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は木幡山伏見城から大阪城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。立て籠もっていた徳川家の家臣らは自刃した。
焼失した伏見城は慶長七年(1602年)ごろ家康によって再建され、元和五年(1619年)に廃城とされた。
このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は「桃山城」あるいは「伏見桃山城」とも呼ばれるようになった。
伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主要部分はのちに、明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから、現在も無許可での立入りが禁じられている。