雑賀城 (さいかじょう)
最寄地 和歌山県和歌山市和歌浦中3-1-11 2016.4.25
雑賀城 (さいかじょう)
最寄地 和歌山県和歌山市和歌浦中3-1-11 2016.4.25
城跡山公園
城跡山公園・登り口
養珠寺
石塁
千畳敷
雑賀城 千畳敷曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道42号線に面した養珠寺(表記番地)の南に城跡山公園(津屋公園)がある[マップコード35 065 508*48]。駐車はできないので南のコンビニなどに停めてくる必要がある。
公園南西隅の石橋より西に登る。分岐を南(左)に行くと比高20mの妙見山上に「養珠寺妙見堂」が建っている。
また戻って、分岐を北(右)に行くと後世のものと思われる石塁があり、それに沿って北に行くとコンクリートの煙突がある。その北に千畳敷曲輪と呼ばれる平坦地がある。通路以外樹木が茂っている。目立った遺構は無い。
【歴史】 雑賀衆の力が世に伝わったのが、天正五年(1577年)二月の織田信長の紀州攻めの時である。石山合戦の時に雑賀衆は石山本願寺の顕如に合力していた。射撃法を取得していた雑賀衆の軍事力は強力で、この時、鈴木重意の息子鈴木孫市が雑賀衆の党首となり雑貨城の城主となっていた。
顕如は鷺の森にきて、雑賀衆に更なる加勢を要請しにきた。これを知った織田信長は、息子の織田信忠、織田信雄、織田信孝、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益らの大軍を雑賀方面に出軍させた。
この時、雑賀孫市は顕如を雑賀城の近くにある弥勒寺山(現在の秋葉山)に隠し、本陣を雑賀城とし周りに多くの城砦を築いて、織田信長軍に備えた。
天正五年(1577年)二月、織田信長軍に対して雑賀衆は奇襲戦法で一度は退かすことができた。この時に矢宮神社で勝利を祝って踊ったと伝わっているのが「雑賀踊り」である。
一度は鉄砲に苦戦し退却した織田信長軍も、再び総攻撃をかけた。二度も大攻勢をうけた雑賀衆は余力がほとんど残っておらず、織田信長に忠誠を誓う事になった。
鈴木重意は藤堂高虎の謀に陥り、粉河で切腹、雑賀城も落城したと思われている。一方鈴木孫市は羽柴秀長に仕え、後に石田三成に仕えたと伝わっている。
雑賀城は明確な曲輪が残っておらず、古城跡の面影はほとんど見られない。『日本城郭大系』によると「城よりも団結を重視した一族であった」為ではなかったと解説している。
現在、妙見山の山麓には紀伊藩初代藩主徳川頼宣の母養殊院の位牌を安置するため建てられた養珠寺や城丘への入口には「城跡山公園」(津屋公園)がある。『ウィキペディア』より。