下赤坂城 (しもあかさかじょう) (国の史跡)
最寄地 大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25 2016.4.25
下赤坂城 (しもあかさかじょう) (国の史跡)
最寄地 大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25 2016.4.25
千早赤阪中学校入口・道標
千早赤阪中学校
農村公園・説明板
説明板
城阯碑
棚田百選
下赤坂城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道309号線「森屋」交差点より府道705号線を南へ約900mゆくと、千早赤阪村立中学校(表記番地)入口前に駐車場がある。
入口に「下赤坂城跡入口」の碑が建てられ、正門を入って校舎の間を抜けると、階段がありその先に「下赤坂城跡」の石碑が建てられた土塁がある(地図)。
農村公園となり説明板が建てられている。公園からは北西に棚田百選に選ばれた棚田が望める。
主郭跡は石碑の北約600mの千早赤坂村役場の西上付近であったと云われている。
昭和九年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。
【歴史】 元弘の乱の主要な舞台となった。元弘元年(1331年)、討幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。
翌元弘二年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城、千早城に後退して抗戦を続けた。
この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる。
南北朝時代にも南朝方の拠点となったが、延文五年(正平十五年、1360年)に落城した。
周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群(17城)を形成していた。一連の戦いの模様は『太平記』に記述されている。