黒井城 (くろいじょう) (保月城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県丹波市春日町黒井738 2018.8.9
黒井城 (くろいじょう) (保月城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県丹波市春日町黒井738 2018.8.9
登城ルート
城跡碑・駐車場
三段曲輪(中段・上段)
二の丸
本丸
本丸南側石垣
西の曲輪(本丸切岸)
黒井城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高240m】
【感想】 丹波市春日町黒井の標高356.8mの猪ノ口山に築かれている。東西に細長い2つの郭を中心に西に1つ東に2つの郭を配置し、周囲を帯郭が取り巻き、部分的であるが石垣がよく残っている。
5合目から8合目の遊歩道付近に三段曲輪、太鼓の段、石踏の段などの附属曲輪が残っている。
【案内】 国道175号線「六反田」交差点より北に行った表記番地先に城跡碑が建てられ駐車場が用意されている[マップコード165 312 583*23](地図)。登り口は2つあり急坂コースとゆるやかコースのルートがある。
約1kmの急坂コースを登ると、獣除けフエンス扉があり5合目付近の尾根に三段曲輪が続いている。8合目付近から右に行くと「太鼓の段」の平坦地がある。戻って左に行くと、「石踏の段」があり、門が建てられ「赤井公招魂碑」が祀られている。
更に登ると東曲輪があり石垣がよく残っている。その上に三の丸、帯郭に囲まれた二の丸、本丸がある。本丸と二の丸の間に石垣の空堀があり本丸南側に折れのある石垣が残っている。本丸の西側に城址碑が建てられ、その西下段に西曲輪がある。
昭和六十三年(1988年)8月11日、国の史跡に指定された。
【歴史】 『嘉吉記』によると、足利尊氏に従軍し、新田義貞軍と戦った功績により建武二年(1335年)十二月、赤松貞範に丹波国春日部を与えられ、この時に築城が始まったと思われている。
大永六年(1526年)十一月の八上・神尾山両城の戦いで黒井城の城主、赤井五郎が兵3千を率いて神尾山城の包囲軍を背後から襲い掛かったという記録がある.
天文年間(1532~55年)に荻野秋清が黒井城主となっていた。一方、赤井氏は氷上町の後屋城を拠点としていた。赤井時家の息子・直正を荻野正元に質子として朝日城に送っていた。荻野正元の息子が黒井城の城主、荻野秋清である
赤井直正は荻野秋清へ年初の挨拶に黒井城に出向いた。その後、荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取ってしまう。
赤井直正は悪右衛門直正と名乗り、黒井城を拠点に戦国武将の道を歩み始めた。 赤井直正は細川晴元派であったと思われており、晴元の没後もその政敵である三好氏との戦いを続けた。
永禄七年(1564年)に多紀郡へ侵攻し、翌年、三好氏方の松永久秀の弟、松永長頼(内藤宗勝)を福知山市にある和久城付近で討ち取り、丹波国から反細川晴元勢力を一掃し、但馬国、丹後国へ勢力を拡大させていった。
天正三年(1575年)織田信長の命で明智光秀を総大将に丹波国征討戦が始まった。
赤井直正は竹田城から黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。明智光秀は黒井城を包囲し、攻城戦が2ヵ月以上となった翌天正四年(1576年)一月十五日、八上城主波多野秀治軍が明智光秀軍の背後をつき、光秀軍は総退却となった。「赤井の呼び込み戦法」と言われている。
赤井直正や弟の赤井幸家は、吉川元春に要請していた援軍が到着しないまま翌天正五年(1577年)十月、明智光秀は細川藤孝、細川忠興の増援を得て、第二次丹波国征討戦が開始された。このような緊迫した中、翌天正六年(1578年)三月九日、武功高き赤井直正(荻野直正)が病死してしまった。
赤井直正の子、赤井直義は幼少であったため、弟の赤井幸家が後見となって赤井家を統率することになり、明智光秀軍に備えた。
しかし、明智光秀軍は波多野秀治の八上城の攻城から取り掛かった。1年余り包囲策をとり、飢餓状態と内部工作により同年六月一日開城した。
また、明智光秀軍は八上城包囲中に、八上城と黒井城の分断を目的に金山城(柏原町)を築城し、氷上郡の西部を羽柴秀長に、氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、黒井城の支城を押さえ孤立無援にした。
そして、八上城落城から約2ヶ月後の天正七年(1579年)八月九日、黒井城もついに落城した。
明智光秀は重臣の斎藤利三を氷上郡に置き統治させた。斎藤利三の娘である春日局(幼名:福)はこの地で生まれた。
本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀であったが、逆に山崎の戦いで敗れると明智光秀の勢力は完全に丹波国から駆逐されてしまう。
その後、黒井城に入城したのは羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴であったが、天正十二年(1584年)羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、赤井直正の弟赤井時直が黒井城と余田城(市島町)で徳川家康に通じ立て篭もった。
これを最後に黒井城は歴史に幕を閉じ、廃城になったと思われる。 『ウイキペディア』より。