堅志田城 (かたしだじょう) (国の史跡)
所在地 熊本県下益城郡美里町中郡栫 2013.10.11 2014.5.10
堅志田城 (かたしだじょう) (国の史跡)
所在地 熊本県下益城郡美里町中郡栫 2013.10.11 2014.5.10
登城ルート(緑線は車道)
梅林神社
出丸より1郭切岸
1郭・建物跡
1郭より2郭を望む
1、2郭間堀切
2郭
2郭北東堀切
堅志田城 1郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道218号線の「神園」交差点を南に折れ県道105号線を約1㎞行った右に「梅林神社」の標識がある[マップコード 291 455 325*01 ](地図)。
そこから西に林道を登るとすぐ梅林神社があり、道なりに西に1㎞登ると1郭下の駐車場に着く。
城跡は標高192mの山頂に位置する。集落からの比高は約160mで、最高所の平坦地にある1郭に、発掘調査で出た建物柱跡が平面復元され、北端には2m高く「土壇」があり建物柱が復元されている。
1郭より10mほど下がった南東の出丸(地図)及び北東の2郭(地図)にも建物跡が復元されている。
1、2郭の間の堀切は深く良く残り、冠木門跡がある。
北西の栫(かこい)集落に延びる尾根には計三条の堀切が設けられ、四つの郭があり、四つ目は「舞ノ御殿」とよばれ、林道を挟んだ曲輪は「味噌御殿」と呼ばれている。
平成十八年(2006年)1月26日、11箇所の郭、15箇所の堀切や畝堀等を有する大規模な城跡として国の史跡に指定された。
【歴史】 阿蘇惟長(菊池武経)は弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠を失い、惟長の子・惟前は大永三年(1523年)に当城に入った。惟前は相良氏と結んでいたが、天文十二年(1543年)に落城し、当城は惟豊方の支配下となった。
天正十年(1582年)に島津氏が八代城(古麓城)まで進出した後は阿蘇領の最前線となり、島津方の攻撃を度々受けたが撃退に成功している。
このため島津氏は押えの城として「花の山城」(宇城市豊野町)を築き、戦線は膠着した。
天正十三年(1585年)に甲斐親直が没し、御船城主となった甲斐親英は花の山城を攻め、合戦が再開された。同年に当城は攻め落とされて島津氏の番城となった。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で島津氏の撤退から肥後国人一揆の間に廃城となったとされる。