七尾城 (ななおじょう) (益田城) (国の史跡)
最寄地 島根県益田市七尾町4‐71 2013.10.13 2015.5.15
七尾城 (ななおじょう) (益田城) (国の史跡)
最寄地 島根県益田市七尾町4‐71 2013.10.13 2015.5.15
登山口・説明板
住吉神社
井戸
二の丸跡
本丸跡
三宅御土居・墓地跡
医光寺総門(移築大手門)
七尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【案内・感想】 「住吉神社」(表記番地)に駐車できる[マップコード277 313 533*12]。鳥居、石段から南東へ標高約115m比高約100mの山頂へ登る。
途中、朱塗の住吉神社がある。そこから落葉の散り敷く径を登ると、馬釣井跡があり、さらに行くと二の丸へ着く。
土塁や空堀の南に本丸があり、そこから益田市街や日本海が望める。二の丸の北に三の丸がある。
大手門が益田市の医光寺総門(地図:益田市染羽町4−29)として現存している。
国の史跡を構成する益田氏の居館・三宅御土居(みやけおどい)は、大元神社(益田市三宅町8‐8)の東にあり、西側に土塁が残っている(地図)。
益田兼見により、室町時代の応安年間(1368~75年)に築かれたといわれている。
平成十六年(2004年)9月30日、三宅御土居と共に国の史跡「益田氏城館跡」に指定された。
【歴史】 七尾城は、中世の有力武士団益田氏の居城で、全長は南北約600mで西側に畝状空堀群を備えて防御とし、建久四年(1193年)4代益田兼高が築城した。
史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年(1336年)に南朝方の三隅軍が「北尾崎木戸」(当時の大手口)に攻め寄せた記録が益田家文書に残る。
天文二十年(1551年)陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就(もとなり)との戦いの中で、当時の領主・益田藤兼は陶側につき、毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した。
その後、藤兼は元就の軍門に降り、毛利氏の家臣となった。天正十一年(1583年)に子の元祥と共に下城し、麓の三宅御土居に居を移した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は防長2国へと減封となった時、七尾城主だった当主益田元祥は毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。