神尾山城 (かんのおさんじょう) (本目城)(もとめじょう)
所在地 京都府亀岡市宮前町宮川神尾山3 2017.1.12
神尾山城 (かんのおさんじょう) (本目城)(もとめじょう)
所在地 京都府亀岡市宮前町宮川神尾山3 2017.1.12
登城ルート(緑線は車道)
金輪寺本堂
本堂右手の登り口
堀切
2段目の郭
4段目(主郭南側)
主郭北側
神尾山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 本堂裏から階段状の曲輪が並び、堀切、土塁が残っている。標高359mの山頂に主郭があり、南北に広大な林となり全体として放置されている印象であった。
【案内】 国道372号線「宮前」交差点より国道477号線に入り、約200m西を右折約750m行くと金輪寺入口となる。細い車道を2.1km登ると金輪寺駐車場がある[マップコード52 701 863*61](地図)。
本堂の右手より北に行く。途中、歴代住職の墓がある。北端より登ってゆくと、堀切があり、その上に4段の曲輪がある。4段目(主郭)は広大で、中央を区切るように土塁(櫓台)がある。
【歴史】 香西元盛は管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって自害させられた。これに対して良い感情を抱いていなかった香西元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は十分な調べもないまま元盛が自害させられたことを知り、怒りを爆発させ丹波八上城・神尾山城両城で反旗を翻した。
これに対し高国は、大永六年(1526年)十月二十三日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。結果、細川方が退却した。
天文二十二年(1553年)九月三日の『言継卿記』で、内藤国貞が本目城で討死にという記載が見受けられる。
また『総見記』によると天正年間(1573~92年)に明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったとの記載が見受けられる。