徳山城 (とくやまじょう) (徳山陣屋・御館関・御城)
所在地 山口県周南市徳山5854−41 2014.5.14
徳山城 (とくやまじょう) (徳山陣屋・御館関・御城)
所在地 山口県周南市徳山5854−41 2014.5.14
模擬塀
周南市文化会館
説明板・庭園
説明板
徳山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 空堀や水堀は設けられず、土塁で間に合わされており、簡素な構えであったが、陣屋としては「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模であった(他の二つは敦賀酒井氏の敦賀陣屋と保科氏の飯野陣屋(千葉県富津市下飯野965))。
城跡は周南市文化会館(表記番地)、祐綏神社、周南市徳山動物園となっている[マップコード107 487 835*53] 。
文化会館の前庭が、かつての徳山城の庭園であり、庭園内にある「徳山藩館邸跡」の説明板が建てられ、もう一枚「徳山藩館邸跡」の説明板が塀に張り付けられ「館邸の門」と「毛利家館邸」の在りし日の古写真が掲げられている。
【歴史】 元和三年(1617年)、毛利輝元の次男・毛利就隆(なりたか)が、兄・毛利秀就から下松に3万石を分封された。
慶安元年(1648年)、現在の地である野上村に陣屋が築かれ、翌年に竣工した。慶安三年(1650年)、就隆は藩庁を野上に移し、地名を徳山に改称した。
正徳六年(1716年)、万役山事件(小松一本より発展した萩藩と徳山藩の争い)により、徳山藩は改易された。
享保四年(1719年)、里人は「周防徳山領百姓中」と署名し、嘆願書を老中・水野忠之ほか大目付、目付三人に投書し、嘆願が認められて徳山藩が再興された。
天保七年(1836年)、萩藩の斡旋により、徳山藩主が城主格となり、陣屋が城扱いとなったため、「御舘」は「御城」と呼ばれた。
明治四年(1871年)、徳山藩は山口藩に併合された。
昭和二十年(1945年)7月26日、徳山大空襲によって、徳山城は焼失した。