彦根城 (ひこねじょう) (金亀城) (国の特別史跡・日本100名城50)
所在地 滋賀県彦根市金亀町1‐1 2013.5.26
彦根城 (ひこねじょう) (金亀城) (国の特別史跡・日本100名城50)
所在地 滋賀県彦根市金亀町1‐1 2013.5.26
内堀・太鼓橋
大堀切・天秤櫓・廊下橋
天秤櫓・高石垣
太鼓門
石垣・高石垣
現存三重櫓天守
彦根城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現存十二天守の一つで国宝(犬山城、姫路城、彦根城、松本城)に指定されている。
外堀の内の二の丸駐車場[マップコード101 375 776*03](地図)より「井伊大老銅像」を見て南に行くと「馬屋」(重要文化財)が復元されている。
県道518号線を歩いて、外堀の土橋から二の丸の佐和口多聞櫓(重要文化財:地図)が見え、外堀に映えて白壁が美しい。二の丸へ戻って巾約20mの内堀を眺めながら南に行き、木の太鼓橋を渡り大手門に入る。
入城券(一般600円、小中学生200円)を買い求め、太鼓門・続櫓(重要文化財)をくぐり登ってゆくと堀切に廊下橋があり、南に廻り込むと売店があり中国語の観光客が多い。
大堀切の廊下橋を渡り、天秤櫓(重要文化財)を通って高石垣の石段を登ると、本丸に野面積石垣天守台に現存三重天守・附櫓・多聞櫓(国宝)がある。
三階からは佐和山初め彦根の町、琵琶湖が一望できる。天守南の広場でゆるキャラの「彦にゃん」を観光客が取り巻き写真を撮っていた。北西に西の丸三重櫓・続櫓(国宝重要文化財)がある。
東に降りると「彦根城博物館」であり庭園や能楽堂がある。
昭和二十六年(1951年)6月9日、「彦根城跡」として国の史跡に指定、昭和三十一年(1956年)7月19日、国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(50番)に選定された。
【歴史】 徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長五年の関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍の指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。
直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、慶長七年(1602年)に死去した。
幼少の直継が家督を継いだが、直政の遺臣である家老・木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継ぎ、慶長八年(1603年)琵琶湖東岸の彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行三名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝いを命じられる天下普請であった。慶長十一年(1606年)第二期までの工事が完了し、同年の天守完成を待って直継が入城した。
元和二年(1616年)彦根藩のみの手により第三期工事が開始された。この時に御殿が建造され、元和八年(1622年)、彦根城が完成した。
その後、井伊氏は加増を受け、寛永十年(1633年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。
幕末における幕府の大老を務めた16代藩主・井伊直弼(なおすけ)は、藩主となるまで城下で過ごし、直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。
明治維新後の廃城令で全国の城が破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。
しかし、明治十一年(1878年)十月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。