豊田城 (とよだじょう) (豊田山城)
最寄地 奈良県天理市豊井町500 2016.9.2
豊田城 (とよだじょう) (豊田山城)
最寄地 奈良県天理市豊井町500 2016.9.2
登城ルート
農道入口と道標
副郭北側空堀
副郭
主郭副郭間の空堀
主郭・標識
主郭東側空堀
豊田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 県道51号線「豊井町」交差点の右(東)に天理教(表記番地)のよく目立つ高層建物があり、北に120m余くと右側に休業のうなぎ料理の看板があり、その前に駐車できる。
県道より東側に入っていく農道があり、「豊田城址→」の小さな道標が出ている[マップコード11 087 276*47](地図)。そこを入って200mほど東に行くと案内板、説明板が建てられている。
登ると、南郭(出郭)があり、草地となっている。左に登ると空堀が東から北側に残り、北側は二重になっている。その北は東郭がある。
南西方向に副郭があり、広い空堀で隔てて、少し高くなった主郭があり「豊田城址」の標識が立てられている。土塁も残っているが藪化している。
【歴史】 豊田氏は興福寺大乗院方の衆徒で、本拠地である豊田のほかにも勾田・田村・三島・田井庄などを領していた。
豊田頼英の頃、永享元年(1429年)には井戸氏との争いを発端とした大和永享の乱が起こり、当時は越智党に属していた。
享徳四年(1455年)には古市・小泉・高山・秋篠の各氏と共に官符衆徒に任じられ、筒井氏に代わり寺門奈良中の検断権(警察権)を得たことにより筒井・古市氏に次ぐ勢力となった。
元亀元年(1570年)には松永氏の傘下となり、松永氏の命により現在の縄張りに改修されたと考えられている。『天理市教育委員会説明板』