富岡城 (とみおかじょう) (臥龍城)
最寄地 熊本県天草郡苓北町富岡2217 2013.10.9
富岡城 (とみおかじょう) (臥龍城)
最寄地 熊本県天草郡苓北町富岡2217 2013.10.9
登城ルート(緑線は車道/緑丸は二の丸/青丸は三の丸/青角はアダム荒川の墓)
南側遠景
アダム荒川殉教の墓
復元石垣
二の丸
二の丸(奥が本丸)
富岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 天草下島の北西、砂州で繋がった富岡半島の南東部の標高約60m比高約40mの丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海の防御機能を有する。陸からの攻撃は砂州のみの、天然の要害を形成していた。
国道324号線より町道を約900m、入江の手前を左折、西へ約200m行くと道路南にアダム荒川殉教の墓がある(地図)。アダム荒川は慶長十九年(1614年)のキリシタン禁令で追放された神父に代わり教会を三ヶ月にわたり守り通し、処刑された。
西に100m行き左折し、南へ約220m行き[マップコード713 093 054*83]、左折すると間もなく冨岡城売店(表記番地)のある駐車場に着く。
徒歩にて登ると二の丸と本丸の間の虎口石垣に着く。南から本丸、一段下がって二の丸、一段下がって出丸と並んでいる。本丸には櫓「熊本県富岡ビジターセンター」(入館・無料)や門が復元されている。
城からは、島原半島や天草灘、冨岡の町や砂州等の絶景が一望できる。
三の丸跡は東麓にあり、老人ホーム、温泉施設(苓北町冨岡2228)等の敷地となっている(地図)。
【復元】 平成六年(1994年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上に復元作業が行われた。
平成十七年(2005年)三月復元作業が終了し石垣や櫓が復元され、二の丸・出丸は公園となり、勝海舟、頼山陽の「日本の恩人」の像が立てられ、後列に鈴木重成、鈴木正三(重成の兄)の「天草の恩人」像が建てられている。
【歴史】 元久二年(1205年)からおよそ400年間志岐氏が統治し、戦国時代末には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎えた。
秀吉政権下で天草郡を含む肥後北部を領していた小西行長は、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き敗れた。
このため所領は没収され、翌年徳川方に付き功のあった唐津城主・寺沢広高に天草郡4万2千石を与えられた。
広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長七年(1602年)から3年をかけて富岡城を築き城代を置いた。
寛永十四年(1637年)十月二十八日(新暦12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応し、天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。
富岡城代の三宅藤兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘の末、2週間後に戦死した。翌年、新暦1638年1月4日、一揆軍は富岡に迫り城下と城を攻撃し、戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え新暦1月10日に一揆軍を撤退させた。
一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。
寛永十五年二月二十八日(新暦4月12日)、原城に立て籠もった一揆軍は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した寺沢堅高(唐津藩二代藩主)は天草郡を没収された。なお、堅高は正保四年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となった。
乱の後、天草郡は山崎家治に与えられ、備中国成羽藩より入城し冨岡藩が成立した。
山崎家治は入封すると早速、城の改修に着手した。百間塘と呼ばれる土手道を整備し、袋池を構えて内堀の代わりとし、大手門を造営した。
寛永十八年(1641年)城の改修が終了したが、この年に山崎家治は讃岐国丸亀城に転封となった。以後、寛文四年(1664年)まで天領となった。
初代代官として鈴木重成が承応二年(1653年)まで務めた。重成は天草郡の石高四万二千石は過分であり半減すべきであると訴え江戸で切腹した。
重成の後は、子の重祐が継いだが十三歳と年少であった為、明暦元年(1655年)甥の重辰が天領代官を継ぎ寛文四年まで務めた。
寛文四年、三河国田原城より戸田忠昌が2万1千石で入城し再び富岡藩が立藩した。忠昌は城の維持管理が領民への負担を強いていることに疑問を感じていた。
このため寛文十年(1670年)忠昌は遂に三の丸に藩庁を残し、本丸・二の丸を破却し廃城とした。これは「戸田の破城」と呼ばれ、良策として後世に評価された。
廃城となった後は三の丸が陣屋(富岡陣屋)として残った。破城の翌年、忠昌は「天草は永久に天領であるべき地」と主張し認められた。
忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所(天草代官所)として機能した。
明治元年(1868年)には天草県となり、代官所は県庁となったが間もなく長崎府に編入され、廃藩置県の時の明治四年(1871年)には八代県に編入、さらに白川県、熊本県に編入された。