松尾城 (まつおじょう) (指宿城 )(いぶすきじょう) (市の史跡)
最寄地 鹿児島県指宿市西方6823 2015.5.8
松尾城 (まつおじょう) (指宿城 )(いぶすきじょう) (市の史跡)
最寄地 鹿児島県指宿市西方6823 2015.5.8
登城ルート(緑は西の曲輪)
民家北の入口標識
松尾城跡標柱
西の郭
2郭南空堀
本丸南空堀
本丸跡・拝殿
指宿城阯碑
松尾崎神社
松尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道226号線「城公園」バス停より約160m北に行った表記番地の先に入口標識がある[マップコード285 404 243*44](地図)(駐車スペースは少ない)。
徒歩にて、50mほど北の「指宿枕崎線」の仮踏切を渡るとすぐ城跡標柱、説明板が建てられている(地図)。
空堀を北に行き、右に曲って登ると本丸跡で、拝殿が建てられ、土塁上に松尾崎神社が建てられ「大己貴命」(大国主命)と天手力雄命の2柱が祀られている。拝殿の左側手前に「指宿城阯」の石碑、説明板が建てられている。
戻って西に空堀があり郭が四つほど残っている(こちらは杉林となり保存状態は良くない)
【歴史】 鎌倉時代から江戸時代初期の慶長二十年(1615年)まで約400年にわたる城で、天然の要塞に人工を加え、海城山城の両性格を備えた城であった。
伊作平氏流で頴娃郡司だった頴娃忠永の次男忠光が指宿氏を名乗り指宿郡司となった。
城館を設置したのは4代指宿五郎忠村と考えられる。 またこの城が中央政治と関わりを持ったのは9代指宿忠篤の延元二年(1337年)から興国三年(1342年)の間である。忠篤によって現在の姿に整備された。
指宿、阿多、奈良、紀、島津、弥寝、十代島津忠国の十子頼久、伊地知、田代の諸氏が地頭、城主を交代し天文四年(1535年) 頴娃(えい)4代兼洪の家老津曲若狭守が島津氏を放逐し内地頭に任ぜられた。
【構造】 昭和46年3月20日、指宿市の史跡に指定された。指定区域は本丸に当たり城域は東西南北各約300m、 四ブロック、空濠、土塁、犬走り、武者揃など偲ばれ、南東部の海に面した部分は堅固である。「堀合」「太刀打」「陳ノ尾」などの字名が残っている。『指宿市ホームページ』より、一部追補。