千里城 (せりじょう) (世梨城・芹城・施里城) (町の史跡)
所在地 愛媛県伊予郡砥部町川登 2020.2.7
千里城 (せりじょう) (世梨城・芹城・施里城) (町の史跡)
所在地 愛媛県伊予郡砥部町川登 2020.2.7
登城ルート
登り口・碑
2郭
主郭2郭間の空堀
主郭・説明板
説明板
北側の4郭
千里城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高110m】
【感想】 砥部川上流の標高592mの千里山(城山)に築かれており、国道から円錐型の城山が望める。
頂上は広く5つの主要郭と北側に付属郭があり空堀や堀切、竪堀がよく残っている。西側下方の2重堀切など見所は多い。
【案内】 国道379号線から舗装道を通って銚子ダム公園に向かう。約1.5km行くとカーブミラー手前に登山道入口の石碑が建っている[マップコード234 710 044*54](地図)。そこに駐車できる。
山頂まで遊歩道が設けられ、標識もあり、登ってゆくと、主郭と2郭の間に空堀があり、その東側に着く。
主郭に説明板が建てられ、北側に2段になった3、4郭があり、段郭の先に堀切が2条ある。3郭の西側付け根に竪堀が見られる。
南側に3郭があり井戸跡の窪みがある。西側の20m程下に2重堀切が残っている。
【歴史】 『予陽旧蹟漫遊記』には世梨山とあり、保元平治の乱の頃(1156~59年)には河野通清の弟・新三郎通豊の居城、また、元弘建武の頃(1331~36年)には大森次郎佐衛門盛清やその子・彦七盛長の居城があったと記されている。
天正十三年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐後も松山の湯築城や壬生川城などと共に伊予十城の1つとして残されていたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。『砥部町説明板』より。