高嶺城 (こうのみねじょう) (鴻ノ峰城) (国の史跡)
最寄地 山口県山口市糸米2丁目10−10 2015.5.14
高嶺城 (こうのみねじょう) (鴻ノ峰城) (国の史跡)
最寄地 山口県山口市糸米2丁目10−10 2015.5.14
登城ルート(緑ラインは車道)
3郭
2郭
主郭南西石垣
主郭・建物礎石
主郭北側石垣
高嶺城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高290m】
【案内・感想】 標高338mの鴻ノ峰山頂に高嶺城主郭がある。東麓の山口大神宮より遊歩道がある。
車の場合は国道9号線「白石」交差点の西140mの北より国道に沿って50m行き(変則的な進入路で、国道の歩道と間違え易いので注意)、北に木戸神社(表記番地)鳥居前を西に50m、右折後、細い道を2.4㎞(徒歩40分)登ると比高約220mの中継放送所の横に駐車スペースがある[マップコード93 641 570*83](地図)。
その東の郭に説明板・城跡碑が建てられ、南東に4つの郭が階段状に並び、最南端に石垣が残っている。
中継放送所より西に登って行くと、郭が4つあり、2番目の郭に休憩所が建てられている。登り詰めると、広い平坦地の3郭があり、同じ高さに2郭がある。
更に登ると主郭虎口があり、左手南西側に石垣が残っている。主郭には礎石建物跡があり、城跡碑・説明板が建てられている。比高290m(駐車スペースより70m)の主郭の北から東にかけて石垣が良く残り、東側の腰郭に井戸(網で覆われポンプ取付)が残っている。
昭和三十四年(1959年)11月27日、大内氏遺跡附凌雲寺跡として国の史跡に指定された。
【歴史】 大内義長は、天文二十年(1551年)の大寧寺の変の後に陶(すえ)隆房(のち晴賢)らに迎えられて当主となり、石見国吉見正頼や安芸国毛利元就に備え、弘治二年(1556年)より高嶺城の築城が開始された。
しかし、毛利氏による攻勢(防長経略)は予想以上に早く、弘治三年(1557年)毛利氏が山口に侵攻した際、大内義長は未完成の高嶺城に拠ったが、毛利氏に攻められ大内義長や重臣の内藤隆世は、この城を放棄し長門国の且山城(勝山城)へと逃れ、その地で自害した。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成を見た。城代として吉川氏の一門である市川経好が入り、毛利氏による山口支配の拠点となった。
永禄十二年(1569年)、豊後国大友義鎮(宗麟)の支援を得た大内輝弘は豊後国より周防国へ侵攻した。
大内氏残党の支援も得た輝弘は山口を制圧し、高嶺城を包囲・攻撃した。城主・市川経好は九州に在陣中のため不在であったが、市川経好の妻の指揮により奮戦したという。城の守りは固く、輝弘は城を落とすことはできなかった。
その後九州より反転してきた毛利軍の前に敗北し、輝弘は自害した(大内輝弘の乱)。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、西軍方の毛利氏は周防・長門の2ヶ国に減封された。
毛利輝元は新たな根拠地の候補地として、長門国萩の指月山・周防国防腐の桑山・高嶺を幕府に提出したが、幕府は要地である山口への拠点移動を許さず、萩城が毛利氏の本拠となった。
慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により、高嶺城は破却されることが決定し、寛永十五年(1638年)に廃城となった。
のちに、城址が山口城の詰めの城として使用された。