大洲城 (おおずじょう) (比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城) (県の史跡)(日本100名城82)
所在地 愛媛県大洲市大洲903 2012.9.10 2020.2.7
大洲城 (おおずじょう) (比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城) (県の史跡)(日本100名城82)
所在地 愛媛県大洲市大洲903 2012.9.10 2020.2.7
石垣・土塀
石垣・天守
高欄櫓・木造復元天守・台所櫓
苧綿櫓
三の丸南隅櫓
大洲城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 肱川颪で有名な肱川左岸の丘陵に築かれている。大洲市民会館駐車場(有料:大洲市大洲891-1:地図)が利用できる[マップコード204 320 490*35] 。
土塀の復元された石段を登ってゆくと「御門番長屋」、二の丸広場があり、「中江藤樹」の銅坐像がある。
その東の石垣の上の本丸に、木造復元された四重四階天守(表記番地:平成十六年造)と渡し櫓で連結された東の重要文化財「二重台所櫓」及び南に連結された重要文化財「二重高欄(こうらん)櫓」がある。
有料(大人500円 小人200円(中学生以下))で内部を観覧できる。真新しい壁の漆喰の白が眩しい。
三の丸は市街地となっており、「お殿様公園」の敷地に「旧加藤家住宅主屋」及び重文「三の丸南隅櫓」があり(地図) 、石垣が見られる。
本丸の東、「大洲郵便局」の北、肱川に面して重文「苧綿(おわた)櫓」が保存されている。
昭和二十八年(1953年)2月13日、愛媛県の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(82番)に選定された。
【歴史】 鎌倉時代末に守護として国入りした伊予宇都宮豊房が、元弘元年(1331年)築城した。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の貞泰の子・宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたり南伊予を支配するが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。
天正二年(1574年)一月十五日、土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之(直行)によって大洲城を追われた。
しかし、天正十三年(1585年)その大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は湯築城の支城となった。
天正十五年(1587年)戸田勝隆が入城したが、文禄四年(1595年)に藤堂高虎が入城し近世の城郭として整備され、慶長十四年(1609年)には淡路洲本城から脇坂安治が入城し、この二人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更された。
元和三年(1617年)に伯耆国米子城から六万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えた。
維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。
しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために明治二十一年(1888年)に解体された。現在の天守は伝統工法を用い、平成十六年(2004年)忠実に復元された。