木津城 (きづじょう) (市の史跡)
所在地 徳島県鳴門市撫養町木津21‐1 2014.5.17 2017.12.10
木津城 (きづじょう) (市の史跡)
所在地 徳島県鳴門市撫養町木津21‐1 2014.5.17 2017.12.10
登城ルート
登り口
果樹運搬用モノレール
畝状竪堀
主郭の配水施設
八幡神社
八幡神社北東の空堀
木津城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高55m】
【感想】 神戸淡路鳴門自動車道「鳴門IC」から国道11号線に入る時、南に標高64.1mの城山が見える。
城山は竹林となっているが、北東に横堀とそれに続く畝状竪堀が6条ほど残っている。
【案内】 国道11号線を北に行き左折、川沿いに行く。鳴門市火葬場(表記番地)の南の川沿いを100mほど西に行くと、木津城山公園が整備され、駐車場がある[マップコード56 624 168*61] 。
その東の城山が木津城跡である。城跡の南西に回ると八幡神社があり、その北東に津波避難所となっている空堀(堀切)がある。
北西の道路角から登ると、廃止された果樹運搬用モノレールがあり、それに沿って竹林を登る。
主郭には配水施設が設置され、その3mほど下がった北東側(登った所)に横堀と5、6条の畝状竪堀が残っている。
昭和三十八年(1963年)に鳴門市の史跡に指定された。
【歴史】 戦国時代に築城されたと伝えられている。
元亀四年(1573年)木津城主・篠原自遁(じとん)は主君三好長治の生母と通じたことを兄・篠原長房に咎められ、三好長治に讒言して、長房を攻め滅ぼさせた(上桜城の戦い)。
天正十年(1582年)、篠原自遁は中富川の戦いで十河存保(そごうまさやす)に付いたが、長宗我部元親軍に敗れ、城を明け淡路国へ逃げ延びた。
その後は元親の腹臣である東条関之兵衛が城主となった。天正十三年(1585年)豊富秀吉の四国攻めで蜂須賀正勝(小六)に攻められ、落城し、廃城となった。