馬関田城 (まんがたじょう) (東福城)
最寄地 宮崎県えびの市西川北575 2018.12.10
馬関田城 (まんがたじょう) (東福城)
最寄地 宮崎県えびの市西川北575 2018.12.10
登城ルート(緑線は車道)
水槽・電話ボックスから登る
浅い堀切・曲輪
曲輪
堀跡
馬関田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 えびの市西川北の舌状台地に築かれた3つの城から構成された平山城であるが、シラス土壌の採取場とされたために、殆ど消滅している。
電話ボックスの南側に登ると、竹林の中に郭が残り、北側50m付近に堀の一部が残っている。
【案内】 県道102号線より北に行った表記番地先の台地にある[マップコード195 228 589*47]。
林道横の水槽の上に電話ボックスがあり、その南東の台地に、曲輪がわずかに残り、少し北の右側に立入禁止の堀が見られる。
元々比高20mほどのシラス土壌の丘陵地に築かれ、亀之城・鶴の常・多福城の三つの城域からなり、それぞれの間に堀があったという。
【歴史】 築城年ははっきりしないが、真幸院の領主・北原氏の庶流馬関田氏の居城であった。
永禄二年(1559年)北原氏の家督問題に介入した伊東義祐は、このとき馬関田地頭で城主の馬関田右衛門佐を、謀略を用いて北原氏の後継に据えた。北原氏は事実上伊東氏に乗っ取られた形となった。
永禄五年(1562年)に北原氏旧臣の白坂下総介が島津貴久に北原氏再興を依頼し、その貴久に協力した相良義陽により馬関田城は攻め落とされた。