安芸城 (あきじょう) (安芸土居・安喜土居)
所在地 高知県安芸市土居953 2014.9.13
安芸城 (あきじょう) (安芸土居・安喜土居)
所在地 高知県安芸市土居953 2014.9.13
土橋・桝形
二の丸門・県立図書館
南側石塁
土居跡・石塁
本丸虎口
本丸・土塁
安芸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 土居跡に安芸市立歴史民俗資料館・書道美術館(表記番地)が建てられている。東側入口の道路南に駐車スペースがある[マップコード335 349 808*22]。
書道美術館の前に、長宗我部氏に内通した家臣に毒を入れられた「毒井戸跡」が残っている。
土居北に土佐藩家老五藤家の先祖を祀る「藤崎神社」がある。
西に20mほど登ると虎口があり、土塁が残る本丸(詰の段)がある。東西20m南北50mほどの広さを有し、南が少し高くなっている。
土居は南に水堀が設けられ土塁及び石垣の桝形虎口がよく残っている。安芸市の史跡に指定されている。
【歴史】 鎌倉時代末期の延慶二年(1309年)安芸親氏がこの地に城を構えたと伝えられている。
以後、安芸氏の居城となった。安芸氏は安芸郡を支配し、戦国時代には勢力を伸張し土佐七雄の一人となった。
永禄年間(1558~70)前期安芸国虎の代になり、西部に隣接する長宗我部元親との対立が繰り返され、元親の居城である岡豊城をしばしば攻撃した。
永禄十二年(1569年)七月、国虎は妻の兄である土佐国西部を支配する一条兼定と結び、八流の戦い(八流崩れ)と呼ばれる長宗我部氏討伐の合戦を起こした。
しかし、総崩れとなり逆に安芸城を攻められる結果となった。安芸城での籠城は24日間に及んだが、やがて食糧も尽き、長宗我部側に内通した横山民部が井戸に毒を入れ倒れるものが続出したこともあり、城内の士気は著しく低下した。
落城を覚悟した国虎は自害を条件に、兵士と領民の助命を元親に願い出た。八月十一日、国虎は菩提寺の浄貞寺に入り自決し安芸城は落城した。
落城後は元親の弟・香宗我部親泰が安芸城に入城し、阿波進攻の拠点となった。
長宗我部氏は「安芸」を「安喜」と改め、明治時代初期までこの字が当てられた。
元親の死後、家督を継いだ長宗我部盛親は、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したため、改易となった。
江戸時代になり、山内一豊に土佐一国を与えられると、一豊は重臣の五藤為重に千百石を与え安喜郡周辺を治めさせた。
為重は居留地として安喜城を選んだが、慶長二十年(1615年)の一国一城令により「城」ではなく「土居」と称した。
既に存在していた内堀と土塁の内側に屋敷を構え、石垣を築いて枡形と櫓門を整備し、土塁の上に塀を築くなどの改修を行った。以後、明治時代に至るまで「安芸(安喜)土居」として五藤氏が居住した。
土居の周囲には家臣団の武家屋敷が整えられ、現在も土居廓中として現存している。