津賀牟礼城 (つがむれじょう)
最寄地 大分県竹田市入田1438 2019.5.7
津賀牟礼城 (つがむれじょう)
最寄地 大分県竹田市入田1438 2019.5.7
登城ルート
登り口の城跡碑
北側上段の切岸
東の堀切
腰郭手前の堀切2
腰郭
主郭
津賀牟礼城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 竹田市入田の緒方川と十角川が合流する間に突き出た標高346mの山頂に築かれている。
主郭を中心に南、南東、北へ伸びる尾根に郭を配置し、堀切で隔てられている。
【案内】 県道410号線の緒方川を渡った東に「津賀牟礼城跡」の石碑があり、その反対側が広く駐車できる[マップコード237 063 212*64](地図)。
そこより南へ谷筋を登り、左の尾根を登ると2段の郭があり、日月の祠がある。
南東の尾根に深い堀切があり、中央の郭より西へ伸びた尾根に2条の堀切が見られる。腰郭の上段に主郭があり、祠が祀られている。
【歴史】 築城年代は定かではないが、大友氏の一族の入田氏10代親真によって築かれたと云われる。
天文十九年(1550年)大友義鑑(よしあき)は嫡男義鎮(後の宗麟)ではなく、三男の塩市丸に家督を継がせそうと目論んだ。
このとき入田親誠(ちかざね:親真・親実)は義鑑と共に義鎮を廃嫡にしようと画策したが「二階崩れの変」により、義鑑が没した。
家督を継いだ義鎮は、自分を廃嫡しようと企てた入田氏を攻め、親誠の父・親廉は小松尾城で自刃した。
入田親誠は妻の実家である肥後の阿蘇惟豊を頼って落ちたが、惟豊は親誠を殺害した。
親誠の子入田義実は天正八年(1580年)赦されて豊後に所領を回復したが、天正十四年(1586年)に島津氏に内通して南郡衆(豊後国南部を治める志賀氏らの有力国人)の寝返り工作に大きく関与し、大友氏に害をなすことになる。
しかし、豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津軍が撤退すると入田義実(宗和)もまた薩摩へ逃れた。
文禄二年(1593年)豊臣秀吉により、大友氏が改易され、その後廃城となった。