恒吉城 (つねよしじょう) (日輪城 )(にちりんじょう) (市の史跡)
最寄地 鹿児島県曽於市大隅町恒吉599 2018.12.14
恒吉城 (つねよしじょう) (日輪城 )(にちりんじょう) (市の史跡)
最寄地 鹿児島県曽於市大隅町恒吉599 2018.12.14
登城ルート
擁壁間の登り口
日輪城 (右)
日輪城背後の空堀
4群主郭西側の堀切
4群主郭
畝状竪堀
恒吉城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【感想】 曽於市大隅町恒吉の標高295mの丘陵に築かれており、4つの曲輪群から構成された大きな城跡である。
日輪城はそのうち北東にある1群で、別名というか恒吉城の一部が妥当と思われる。
現在地付きの縄張り図が要所に建てられ迷う事はない。また、長大な空堀や堀切が残っており、切岸も屹立し険しい。
【案内】 県道495線より入った「大隅恒吉地区公民館」(表記番地)に駐車できる[マップコード216 019 035*80]。
崩壊防止擁壁前に標柱と説明板が建てられている。擁壁の間から通路があり、4群最下段の広い曲輪に着く。
北東に1群の日輪城があり切り立った切岸があり、とても登れなかった。あちこちに空堀や、堀切がよく残っている。
標識に従って行くと、4群主郭に着く。南側の空堀を伝って行くと畝状竪堀がある。2群、3群の主郭は破壊されていると、縄張り図に書かれていた。
平成二十一年(2009年)3月10日、曽於市の史跡に指定されている。
【歴史】 築城者や築城年代など不明であるが、恒吉は、恒吉大膳亮の所領であったと云われる。
応永年間(1394~1428年)には山田忠道が恒吉城主、永享年間(1429~41年)にはその兄の山田忠尚が治めた。その後、肝付領、一時島津忠将領、天文末期から元亀年間まで肝付領であったと云われる。
天文十三年(1544年)肝付兼続の軍勢が、恒吉領主島津忠親の軍勢を打ち破り、翌年、日輪城を落城させたという記録がある。
肝付氏の居城となった日輪城は、天文十六年(1547年)島津方の都城安永の領主・北郷忠相の軍勢に攻められ、落城し本田紀伊守の一族因幡守親貞に守らせた。
天正四年(1576年)から文禄四年(1595年)まで北郷時久が城主となり、慶長四年(1599年)の庄内の乱に至る。
石田三成は伊集院入道幸侃忠棟の逆心を島津忠恒に告げた。慶長四年(1599年)三月九日忠恒は、忠棟を屋敷に招き手討ちにした。三月十四日その報を聞いた忠棟の子・忠真は父の仇討ちをすることにした。
伊集院氏は都之城を本拠とし、財部城・安永城・野々美谷城・山田城・志和池城・高城・山之口城・勝岡城・梶山城・梅北城・末吉城・恒吉城の12城を築いた。
日輪城は12城の1支城で伊集院忠真の一族伊集院惣右衛門が守備した。
慶長四年六月二十二日、恒吉城の攻撃が開始され、二十四日島津方は、島津図書頭忠長(宮之城)、樺山権左衛門久高(志布志地頭)、柏原左近将監有国(松山地頭)の3名を遣わし、3千人の軍勢で日輪城を攻めた。
城内にいた1千名は応戦し、堅固で容易に突破できなかった。樺山久高の策により、3日間の攻防戦で日輪城は、開城した。
恒吉は島津氏の所領となり、寺山四郎左衛門久兼入道常雲が地頭となった。日輪城内の三方荒神は、寺山氏の氏神と云われる。『曽於市教育委員会説明板』より。