若宮城 (わかみやじょう) (若宮氏館)
最寄地 滋賀県米原市飯538 2019.9.18
若宮城 (わかみやじょう) (若宮氏館)
最寄地 滋賀県米原市飯538 2019.9.18
冠木門
若宮氏顕彰碑
若宮氏館の石板
若宮城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 天野川右岸の平地に築かれた平城であったという。遺構は見られなかった。
石板には堀跡の水路が現存していると書かれているが、冠木門前の用水路の事だろうか?
【案内】 県道234号線より西に行き、北陸本線を潜った先にある「若宮公園」となっている[マップコード101 589 359*61]。
冠木門があり、「若宮氏顕彰碑」や、「若宮氏館」の石板、説明板が建てられている。
【歴史】 築城時期は不明だが、京極氏(後に浅井氏)の重臣若宮氏の居城とされる。
山内一豊の妻千代(見性院:1557~1617年)は、浅井家の家臣・若宮喜助友興の子として、弘治三年(1557年)当地に生まれた。
「まつ」は若宮左馬助の子で、千代とは従姉妹に当たり、永禄九年(1566年)4歳の時、左馬助が戦死した事により、男子がいなかったことでその所領を相続した。若宮氏の家臣に育てられ、長じて織田信長の4男で豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝の家臣・赤尾孫助と結婚した。孫助は天正十二年(1584年)小牧長久手の戦いで討死した。
この年、「まつ」は孫助の子「志よろ」(1584~1628年)を長浜で出産した。その後「まつ」は長浜城主山内一豊の重臣五藤為浄吉兵衛の弟五藤為重(1557~1629年)と再婚した。
天正十八年(1590年)五藤家は山内一豊と共に掛川に移り、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て土佐に入国した。「まつ」は寛永十六年(1639年)77歳で死去した。
後に「志よろ」は五藤為重の跡を継いだ五藤外記正友(1586~1676年)と結婚した。五藤家は山内家に次ぐ五家老に列し、五藤家は明治維新まで300年間山内家の家老として続いた。
一方、飯に残った若宮家の家臣は「若宮外記仲間」として、若宮家の所領や位牌を守り、毎年法要を行っているという。『現地説明板』より。