姫路城 (ひめじじょう) (白鷺城) (国の特別史跡・日本100名城59・世界遺産)(日本さくら名所100選)
所在地 兵庫県姫路市本町 2013.10.6 2017.9.24
姫路城 (ひめじじょう) (白鷺城) (国の特別史跡・日本100名城59・世界遺産)(日本さくら名所100選)
所在地 兵庫県姫路市本町 2013.10.6 2017.9.24
配置図
大手虎口
三の丸南側土塁
西の丸櫓・土塀
連立天守
菱の門
本丸東側石垣・天守
姫路城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現存十二天守の一つで国宝(犬山城、姫路城、彦根城、松本城)に指定されている天守閣がある。また日本三大平山城(姫路城、松山城、津山城)のひとつである。
有料「大手門駐車場」が用意されている(600円)[マップコード24 308 003*70](地図)。
内堀に架かる桜門橋を渡り、大手門から入るとすぐ三の丸広場である。正面に本丸、西に西の丸の高石垣がある。広場の北に天守の西心柱が展示されている。両端の隅櫓、土塀が復元されている。
有料(大人1000円・小中高校生300円)で、9~16時に観覧できる。
天守は平成21年9月~27年3月まで平成の修理が行われている。大小天守と渡櫓等8棟が国宝に指定され、櫓・渡櫓27棟、門15棟、土塀32棟が国の重要文化財に指定されている。
昭和三年(1928年)9月20日、国の史跡に指定され、昭和三十一年(1956年)11月26日、国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(59番)に選定された。ユネスコの世界遺産となっている。
【歴史】 姫路城の始まりは、1346年(南朝・正平元年、北朝・貞和二年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。
一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。
永禄十年(1567年)、黒田職隆の子・孝高が城代になる。翌年、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍約3千に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退した。
以後、天正元年(1573年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。秀吉の中国攻めの一環で天正八年(1580年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。
羽柴秀吉は、山陽道の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張し、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
元和三年(1617年)、池田輝政の跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取城へ転封させられ、伊勢桑名城から本多忠政が15万石で入城した。
忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した。
元和四年(1618年)には千姫が本多忠政の子・忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。
池田氏に始まり譜代の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治維新の版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。
明治時代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城と共に国費によって保存される処置がとられた。
太平洋戦争において姫路も二度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。
昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっている。