山崎城 (やまざきじょう) (天王山城・宝寺城)
最寄地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎白味才62 2015.5.3
山崎城 (やまざきじょう) (天王山城・宝寺城)
最寄地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎白味才62 2015.5.3
登城ルート
縄張り図
山崎合戦之地碑
酒解神社
2郭・井戸
主郭・礎石
天守台
山崎城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高220m】
【感想】 名神高速道路「天王山トンネル」上の標高270mの天王山に築かれている。
遊歩道が頂上まで整備され、旗立松と「山崎合戦之地」の石碑のある展望台からは桂河、宇治川の合流地点に広がる大山崎の町並を眼下に望める。
土塁、空堀や主郭に建物礎石や、2郭に井戸が残っている。
【案内】 観音寺(山崎聖天)(表記番地)南の道を少し行った所に駐車スペースがある[マップコード7 217 368*86] (地図)。戻って聖天堂横より500mほど登ると旗立松と「山崎合戦之地」の石碑が建てられ、展望台が設置されている。
更に100mほど行くと文久三年(1863年)幕府軍との戦いに敗れ自決した長州藩十七士の墓がある。
約200m登ると重要文化財「酒解神社」神輿庫があり、その先より更に200mほど登ると虎口があり、比高約220mの天王山頂上の主郭には礎石や天守台が残る。
一段下がった二郭には井戸が残る。
【歴史】 山崎城の文献上の初見は、当時摂津守護・赤松範資が南朝方を防衛するため林直弘に警護を命じた。次に山城の国人野田泰忠の軍忠状によると、文明二年(1470年)十二月二十四日、応仁の乱の時に大内政弘軍が摂津に侵入してきた時に、山名是豊軍が京都を防備するためこの地に陣を構えた。
また、文明十四年(1482年)には細川政元が入城した。
また天文七年(1538年)三月に晴元自身がこの城に赴き修築を実施し、この時普請人夫を洛中洛外から集めたことが、『親俊日記』『兼右卿記』に記されている。
翌、天文八年(1539年)に三好長慶が反乱を起こした時、晴元は京都と芥川山城の繋ぎの城として山崎城を利用している。
天正十年(1582年)六月、本能寺の変後、中国大返しで畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝(信長の三男)連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。
山崎城に陣取ったため羽柴軍が優勢となり、六月十三日山崎合戦で敗れ光秀は逃亡、討死する結果となった。
清洲会議から20日程度たった天正十一年(1583年)七月十七日には普請が開始されている。
吉田兼見の日記『兼見卿記』には山崎城には天守があり、廃城日日は天正十二年(1584年)三月二十五日となっている。
幕末の、文久三年(1863年)八月十八日の政変の為、三条実美以下七卿と共に長州藩は京都を脱出し、しばらく本国に退いた。
このとき、筑後水天宮神官真木和泉守はじめ尊皇攘夷派の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し、清側義軍を編成して元治元年(1864年)夏、長州藩軍兵と共に上京し、山崎に布陣した。
追討する幕府軍との間に激しい戦いが展開され、蛤御門・堺町御門に於いて敗れ退却した。この山崎に退いて、国元引き揚げを見送った真木以下長州藩兵17名は天王山に登り自刃した。『現地説明板』抜粋。