首里城 (しゅりじょう/すいぐすく) (国の史跡・世界文化遺産・日本100名城100)
所在地 沖縄県那覇市首里金城町1‐1 2013.6.5
首里城 (しゅりじょう/すいぐすく) (国の史跡・世界文化遺産・日本100名城100)
所在地 沖縄県那覇市首里金城町1‐1 2013.6.5
守礼門
瑞泉門
淑順門
正殿
御庭
歓会門
漏刻門
「玉陵」(たまぅどん)
首里城跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】「首里城公園レストセンター」(表記番地)に、地下駐車場が用意されている[マップコード33 161 546*81](駐車場入口)。
西側に入場券売り場がある(大人820円・高校生620円・小中学生310円)。
駐車場を出ると守礼門があり観光客であふれている。寒川通りを西に100mほど行くと、王の墓である「玉陵」(たまぅどん)(地図)がある。守礼門の東に「園比屋武御嶽石門」(そいひゃんうたき・遥拝所)がある。
首里城は第二尚氏王朝時代の十五世紀後半から十六世紀前半にかけて建設された外郭と、第一尚氏王朝時代の十五世紀前半ごろに建設された内郭という二重の城壁に囲まれ、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があった。
昭和四十七年(1972年)5月15日、国の史跡に指定された。
平成十二年(2000年)11月に首里城跡など共に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。
令和元年(2019年)10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼した。燃え崩れる正殿のテレビ映像を見て、残念で堪らず、喪失感におそわれた。
【歴史】 近年の発掘調査から最古の遺構は十四世紀末のものと推定され、三山時代(北山・今帰仁城、中山、南山・大里城に分れ100年続いた)には中山の城として用いられていたことが確認されている。
十三世紀末から十四世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
中山の尚氏が勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一し、琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても継続された。
首里城は度々被災したが、一度目は1453年(享徳二年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)で、城内は完全に破壊された。
二度目は1660年(万治三年)火災で焼失し、再建に十一年の年月を要した。1709年(宝永六年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
明治十二年(1879年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第六師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。
太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第三十二軍総司令部を置いたこともあり、昭和二十年(1945年)5月25日から三日間、アメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。
昭和三十三年(1958年)、守礼門が再建された。平成四年(1992年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る数々の門と城壁が再建され首里城公園が開園し、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。